1.「比良荘絵図」
中世の荘園を描いた絵図として有名な「比良荘園絵図」に比良山系が描かれている。
「比良荘園絵図」には三種類の異本が伝来している。北小松の伊藤泰詮家本、北比良区保有、南比良区保有の三つである。南比良本には元禄9年(1696)の筆写年代があるが、他の2点は不明である。
三点は基本的に図様を同じくしているだけでなく、ともに弘安3年(1280)と永和二年(1376)の日付をもつ二つの奥書を持っており、もとになった絵図は同じだったと考えられている。
絵図の中央に比良山系の山並みが描かれ、下半分にはびわ湖に面した荘園の所在が示されている。南(絵図ではむかって左)から木戸庄、比良庄、小松庄、音羽庄、三尾庄が配置され、法花寺、長法寺、天満宮、樹下神社、白鬚神社なども記載されている。びわ湖に流れ込む川が何本か描かれているが、南(絵図ではむかって左)から、大谷川、比良川、滝川、鵜川、鴨川に比定されている。
山中の地名としては、以下のものが解読されている。左側が絵図記載の地名、右側は、比定されている現在の地名である。
小馬ヒタイ カラ岳
ハ井坂 次郎坊山(宮山)
ササカ峰 北比良峠
花打 (不明)
乾谷 シンジ谷またはカラ岳谷南支流
焼尾 (不明)
馬瀬 ウマノセ谷上流付近
比良タケ 蓬莱山
他に絵図には描かれているが名前が記されていない山があり、堂満岳と比定されている。
【追記】
この「比良荘絵図」が、鎌倉時代末から室町時代初期の湖西から見た比良山系の様相を正確に映し出しているのだとすれば、このころの比良山系の主稜線部分には、山岳宗教の拠点となるような大きな施設(寺院等)はなかったことになる。比良三千坊などとといわれるが、もし右の推測どおりだとすると、比叡山とは大きなちがいがあったことになる。
また、この絵図から当時の人々にとり、比良山とは現在の蓬莱山をさしていたこともわかる。
2.「寛文絵図」
寛文9年(1669)、南北両小松村と北比良村が立ち会って、各村の境界を定めた時につくられた絵図。絵図に記載されいる山中の地名
寛文絵図 現在の地名
こまがひたい カラ岳
はや坂 次郎坊山(宮山)
大山 北比良峠
かなくそのたけ 堂満岳
乾谷 シンジ谷またはカラ岳谷南支流
3.「正徳絵図」
正徳元年(1711)8月、南北両比良村と鹿ヶ瀬村との山論の裁決が下ったときに作られた裁許絵図。図に記載されいる山中の地名
正徳絵図 現在の地名
北横座 釣瓶岳
兵衛尾 武奈ヶ岳
丸尾 御殿山
鹿水
長尾 ナガオ
鈴ヶ嶽 コヤマノ岳
駒かひたい カラ岳
大山 北比良峠
金くそ嶽 堂満岳
(上記はすべて『志賀町史』第2巻、1999年による)
中世から近世にかけて、比良山系の東側の湖西地方(とくに北比良)に住んでいた人々にとっては、標高の高い釈迦岳よりも、ガレ場が目立つカラ岳の方が、目印になるわかりやすい山であったようである。また、「比良山」=蓬莱山であったこともわかる。当時の地名は、現在では使われなくなってしまったが、現在の山名がいつごろから使われるようになったのか、それも興味ある問題といえよう。
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