私たちは良く、道を究めるということを言います。 この場合の「道」とは、普通の目に見える形のある「道路」の道とは違います。もっと概念的なものを指していることはみなさんもご存知の通りでしょう。 日本には、剣道や柔道といった、いわゆる「道」という字がつくスポーツがあります。また、文化的な面でも「華道」「茶道」「書道」のような「道」のつくものが多いです。
子供の頃から、書道や剣道、柔道などに親しんでいる人も多いでしょう。また、柔道は国際的なスポーツとして、世界中の人たちに親しまれています。ですから、私たちは普段から何気なく、そういう意味での「道」という言葉に触れているのです。
では、この「道」(どう)というのは一体どういうものなのでしょうか。
「道」というのは、「首」と「しんにゅう」という組み合わせでできています。この場合の「首」というのは、人間をさし、「しんにゅう」は止まると行くという字の組み合わせというところから、「道」というのは人間が行きつ戻りつするところだという認識に至るそうです。さらに、その意味から発展して、人間が何度も同じことを反復することによって得た最高のものを道という説が有力のようです。
中国の思想家の荘子は、「道」とは、人間も含む宇宙を支配する根本原理を意味していると述べていますが、さらに、荘子は「道」というのは、耳で聞こえるものでもないし、目で見ることもできず、言葉でも表わすこともできない。すなわち、耳で聞けるものも、目で見ることができるものの、言葉で表せるものも道ではない。形のない道は、言葉による表現を越えたものだと説明しています。
私たちは、剣道や柔道、茶道、華道のように、「道」という言葉を当たり前のように使っていますが、その本質を理解するのはとても難しいのではないかという気がします。実際にその言葉を的確に外国語に翻訳するのも困難です。
しかし、感覚的に「道」というものを理解することはできますし、「その道を究める」という使い方をした時に、その場合の「道」というのがどういうものであるのかということを漠然とわかるでしょう。ただ単に遊びや趣味程度でやるというのではなく、何らかの信念や哲学などを持って、その道を究めること、言い換えると、『その分野でのあり方』を見つけ出すこと、それが「道」なのではないかと私は考えています。
(参考記事)道のサイトより抜粋
荘子の「道」について
剣道用語辞典 道とは何か
山に登るためには『道』を利用する。が、『道』がどのようなものかは普段考えない。登山口の取り付きまでは「国道〇号線」と「県道〇号線」、その後に市道を通過して・・・登山口に到着。そこから登るのであるが、大概は地図やアプリに描かれている道(トレイル)に沿って歩く。つまり人が往来を多くする所として『道』を歩いている。このような道は利用が簡単である。もう既に誰かが、足跡を残してくれているのだから、そこを外れなければよいだけだ。『登山道』はどうだろうか?登山を究めるとは?ポケモンのように〇〇山ゲット!ではないはずである。趣味としての動機は人それぞれであろう。でも、それだけでは、余った時間をつぶしているだけのようにも思えてくる。
さて、『道』を究めるにはどうすればよいのだろう?何から始めると良いのだろうか?とりあえず、花や鳥など自然と向かい合うところから、はじめていくことにしよう。また、できるだけバリエーションルートを探りながら山登りを楽しんでみよう!山頂に進路を取りながら、どのように進むか考えながら歩くのも『道』の一つの考え方かもしれないし。
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