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著者は現役の医師である。医師でなければ描けない思考であり作品だと感じた。
医師の経験に加えて彼に驚異の想像力があって初めて生れた作品であろう。
AIは以下のように説明している。
『サンショウウオの四十九日』は、結合双生児の杏と瞬を主人公とした物語です。彼女たちは一つの身体を共有し、特異な体や思考、運命について語ります。著者の朝比奈秋は医師であり作家で、第171回芥川賞を受賞した作品です。この作品は人間の存在や他者とのつながりを探求しており、深いテーマを持っています。
新潮社はWEB上で以下のようなキャッチコピーを載せている。
周りからは一人に見える。でも私のすぐ隣にいるのは別のわたし。不思議なことはなにもない。けれど姉妹は考える、隣のあなたは誰なのか? そして今これを考えているのは誰なのか――三島賞受賞作『植物少女』の衝撃再び。最も注目される作家が医師としての経験と驚異の想像力で人生の普遍を描く、世界が初めて出会う物語。
結合双生児の生れる確率を本文の中で説明している件がある。
雷に打たれる確率は約100万分の1。一卵性双生児が生れるのは300の出生につき1組、つまり確率約0.3パーセント。結合双生児になると20万出生につき1組。腰部や胸部の結合が殆ど。頭部接合になると確率が一段と低くなり約250万分の1。頭部も胸部も腰部も結合した双生児となるとさらに確率が低くなる。
私の孫に二卵性双生児、つまり双子ちゃんがいる。
調べたところ、自然妊娠の場合二卵性双生児が誕生する確率は約1.1%だそうだ。
改めて孫のことに思いを馳せる。
自分のように普通に一人の人間として生れてくる赤ちゃんを単生児と呼ぶらしい。
たんせいじ ワード変換も直ぐには出てこないレアな単語だ。
身体が一つの二人は、5歳くらいになり漸く大人達に認識され、濱口杏と濱口瞬という二人の人間として名前が与えられた。
自己とは何なのか。肉体なのか。意識なのか。
デカルトの「我思う、ゆえに我あり」
脳が、思考が、自らの意識を作り出していると考える医者や科学者は双生児たち二人の思考が主観と客観を越えて統合されていると証明する。
この作品ではこう書かれている。これは作者の想像だろう。
意識は脳にない。意識の反映が脳に活動となって顕われるだけだ。意識はどこからも独立している。タチアナとクリスタの意識は脳からも互いからも完全に独立している。
思考や感覚が混じっても、意識が混じることはない。人間存在は内臓や心身のすべてを超越している。
この作品にはもう一組の兄弟が描かれている。それがこの双生児達の父親と叔父である。
このような双子とも兄弟とも呼べない双生児が実際の医学の現場ではありえるのだろう。
サンショウウオは作品の中程に出て来る。
陰陽魚 黒いサンショウウオが一匹、白いサンショウウオが一匹。白と黒がお互いの陣地に攻め入りつつ一つの円を成しているのは相補相克を表現している。補いあい、かつ、競いあう、という意味だ。以下省略
濱口杏と濱口瞬の二人の臓器は一つしか無い臓器と二つある臓器と臓器によってちがう設定だ。それで成長して行けているのだ。何とも想像出来ない世界だ。
この本を読んで、自分とは何か、自己認識とは何か、意識とは何かを改めて考えさせられた。
一つの肉体で生きている自分だが、意識はその時々で変化している。もっと言えばその瞬間でも全く違った認識を抱くこともある。
どちらが本当の自分なのか判らないことがあり、一方の自分が他方の自分を慰めたり叱咤激励したりすることはないだろうか。そのようなこと他の人間も考えた頃が有るのでは無いだろうか。
最後に一言。
私の娘が生んだ二人目と三人目の双子の孫がすくすくと元気に育って欲しいと思うのはジイジイ馬鹿だろうか。
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