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その頃の自分は他人に対する執着がだいぶあったので、「あいつむかつく。」とかそういう気持ちを引きずったまま週末に山を歩く事も多かった。不可思議なこと(当時はそう思っていた)に、そういう時に限って思わぬところで転んだり、道を間違えたりした。
よくは分からないが山には山のルールがあるのかと考え、危ない目には遭いたくないから山のルールを理解しようと頭の片隅で考えながら歩くようになった。
だけど、ある経験から、そうではないと分かった。
山のルールなんていう個別のものは無くて、この世界(自然)の共通ルールを自分が理解していないだけだった。
他人のせいにしようがなにしようが、結局すべて自分に返ってくるだけ、ネガティブな感情を持てば、ネガティブな結果となって自分に返ってくるだけ。山は自然だから、それが分かりやすいだけなのだ。
我々が作った街は、我々には当然便利なのだが、我々が生きている世界の一部の要素しか持ち合わせていない。
だから、街に居ただけでは、どういう世界に私が存在しているのかを理解することは難しい。世界を理解することは結局自分を理解することに行きつくので今自分がしていることが何なのかを真に理解することも難しい。
だけど自然の中に入れば、それらを学び理解するチャンスがある。山を歩くということはその点で最高に条件が揃っている。
極端なことを書くように思われるかもしれないが、アルプスの稜線を歩いているのも、近所のコンビニへ歩いているのも、家の廊下を歩いているのも本質的には同じだ。
もちろん自分の肉体は山を歩いている時は息も上がるし汗もかくし、周囲の情報に反応する訳だが、私が今ここに存在するという点ではどこに居ても同じだ。同じルールのもとにある。
山は頂上に行きつく手前が一番厳しい。目線の先に小屋が見えてもそのまま平坦な道で行けるわけではない、目的地が見えてから一勝負かならずある。
この事ってこの世界全てにおける共通ルールなので、これを分かっている人は強い。
たとえば仕事なら、どこからが勝負なのかが分かる(そうはいかないという感覚)ので、サバイブできる計画を作れる可能性が高くなる。もしそういうのが分かっていない人だとしたら、早合点してしまったりして実効性のある計画を立てるのが難しい。プロジェクトが破綻するのはこういう理由が多い気がする。
状況を正しく認識できる能力は極めて大事だ。
自分の存在する世界を少しでも多く理解すること、ひいては自分をよく知ること、少しでも社会の役に立つ人になること。
自分にとって山を歩くということはそういうことにつながっている。
===(雑記)ある経験の話
山を歩きだしてからほどなく職場の同僚からテレマークスキーに誘われた。山歩いてて、体力もあって車持っててフットワークも軽いやつということでパーティーのメンバー補充のために声をかけられたと思う。最初はもちろんろくに滑れないし、ブーツはあたるし、さんざんだったが、冬山をスキーで歩いて滑走するというアクティビティはとても楽しかった。
何年か後、パーティー3人で上越の山をハイクアップしていたある日、雪が降り続くなか、いくつかのアップダウンを越えて、周囲を斜面に囲まれた中庭のような平地に出た。危険なエリアではなかったので3人は間隔を空け、それぞれのペースで歩いていた。
小休憩にちょうどいいと少し立ち止まった時、ふとそこら中の斜面に母親の存在を感じた。あっちにもこっちにも母親が居るのだ。文字にすると変なこと書いているかも知れないが、その時の自分には違和感はなぜか全然なかった。納得感のようなものがあった。周囲の空気は冷たいはずなのにぽかぽかした心地で安心感があった。
ああ、俺はどこに居ても同じなんだと思った。
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