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しかし自分が高校生だった1970年代は、まだ民営化前の国鉄の列車が走ってました。ここを走る列車は、垂直の背もたれのある対面式4人がけの座席、列車への出入り口は車両の前と後に手動の扉という、今から考えれば非常にクラシックな型の列車でした。道場にある不動岩や百丈岩での岩登りの帰りに、トンネルの合間に車窓から見える武庫川峡谷の岩場の景色が楽しみの一つでもありました。
この武庫川峡谷に顕著な四角いオーバーハングを抱えた新岩という岩場があります。当時は主にあぶみの架け替えによる人工登攀主体の岩場で、ここにアプローチするには山の上のゴルフ場への道から谷間を降りるのが普通でした。
雑誌「山と渓谷」の「日本の岩場:ゲレンデ編」でこの新岩が紹介されて、一度登りに行ってみたいと思ってましたが、この武庫川峡谷沿いの他の岩にも興味がわきます。そこで当時高校山岳部の同期の友人Kを誘って、生瀬から左岸沿いにへつりながらアプローチして新岩に行こうということになりました。時期は12月です。どうせなら新岩の取り付きでビバークして、翌日も登るという計画になりました。
土曜日の午後に(当時はまだ土曜のAMには授業がありました)生瀬駅を降り立ち、住宅街を抜けて峡谷に入ります。この武庫川の水は上流に大きな住宅地や工場などもあるため、今も汚いですが当時はもっと汚かったです。したがって岩のへつりをするにも、落ちたらずぶ濡れになるというスリルに加えて別のスリル感も味わえました。
時折走る列車の窓から手を振る乗客に応えながらしばらく順調に進むと、一箇所流れが緩やかな淵の水際で、垂直で手がかりの少ない岩場に出くわしました。ここは水面からの高さ50cmほどのところをトラバースするのですが、一箇所だけ手がかりがなくハーケンが打ってあります。自分が先にたち、そのハーケンにあぶみをかけて突破しました。上に登るのではなくトラバースなので、いつもとはちょっと違ったバランス感覚が必要でした。ひき続いてKが試み、自分はそれを眺めていました。Kはあぶみを使った体重移動に戸惑っていて不安定な動きをしています。
「あっ」と思ったとき、Kが視界から消えて、彼の片足だけが逆さにあぶみに引っかかっているのが見え・・・と、思いきや、素晴らしい早さで彼は元のあぶみの位置にいました。
バランスを崩して片足だけをあぶみに残して全身が川にはまったあと、どういう技を使ったのかわかりませんがすぐに元の体勢に戻ったのでした。
水につかった時間が1〜2秒とはいえ、Kは全身ずぶ濡れになり、しばらく震えながら進むことになりました。当時は着替えを持つなんてことはなく、山で濡れたら体温で乾かすものだと教えられていたので。。。
この日は新岩に着いてから、手始めにやさしめのルートを1〜2本だけ登ったあとに、ツエルトに二人でもぐりこんでビバークの体勢に入りました。今回自分は、単にツエルトで寝るだけではなく本格的な不時露営の訓練も兼ねて、シュラフではなく薄いシュラフカバーだけで一夜をすごすことにしていました。
低山とはいえ12月の山、夜に入ってかなり冷え込みます。結局一晩中ガタガタ震え、一睡もできずに朝を迎えました。翌日は睡眠不足でフラフラ、当初の計画もあきらめて、まったく登らずにゴルフ場からのアプローチ道を登り返して帰るはめになってしまいました。
二人ともあまり登れなかったにもかかわらず、思い出深い山行でした。
武庫川峡谷廃線跡ハイキングの記録を見るたびにこのことを思い出し、また行ってみたいと思うのですが、相変わらず汚い川の水を見ると、ちょっと躊躇してしまいますねぇ・・・
(写真は武庫川峡谷と新岩)
こんばんは^^
さらさらーっと書かれた落ちで、ほんまに墜ちてしもた
アブミに片足フックでドボンして元の体制
Kさんの臭い、堪らんかった筈も12月一晩中寒うてそれどころやなかった!?
聞いたらやはり脆いみたいですね。
Kはあの時必死だったんでしょうねぇ・・・こっちは、「馬鹿なことしてる・・・」って大笑いしましたが
夜は寒かったですよ〜。ダウンの類は何も無く、薄いセーターで一夜を過ごしたんで。。。
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