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1月13日(金)に、大阪の谷町の関西支社(当時)に技術支援に出張していて、14~16日は3連休でした。16日は神戸の六甲山の東お多福山コースを歩いていました。阪神電車で大阪の野田阪神駅から地下鉄千日前線でなんば駅で降りてホテルに戻り、翌17日5時50分頃起きました。この日は9時からの打合せ会議に出る予定でした。
6時頃何か揺れたかなっていう感じ位しかしなかった記憶でしたが、館内放送とTVで大災害が起きた事を知りました。幸い会社や人的被害が無かったのが不幸中の幸いでしたが、あまりにも悲惨な光景を見て呆然としました。全ての鉄道はマヒしていました。大阪は停電やライフラインは無事だったと思います。
あれから30年も経つとは信じらず、つい最近だった様な気がします。
改めて、この震災で犠牲になられた6434人の方々のご冥福を心からお祈り致します。
自然災害がこれからも発生するかと思いますが、いつ起きても大丈夫な様に常に準備しておこうと思っています。
写真は4月に関西に行った時に責めて少しでも支援しようと買った復興宝くじです。今でも大切に保存していました。ちなみにこの宝くじは200円が当選していました。
長々と失礼致しました。
阪神淡路大震災
直接関わってない人でも、あれから30年
思いを巡らせる人は大勢いる事でしょう。
私もその1人です。
1994年12月28日夜に発生した三陸はるか沖地震、その時私は青森県八戸市に住んでいました。今は30歳の娘がまだ生まれて9ヵ月の時でした。
離乳食を食べさせている時に地震発生。
娘を抱えて慌ててて部屋を出るも、あまりの揺れの強さにアパートの2階の外階段を降りる事が出来ず、柱にしがみついていました。
今まで聞いた事のない『ゴー!』と言う音が聞こえ、何が起きているのかわからない状況で、このままアパートが崩れて死ぬと思いました。
その後も震度5の余震が続いている最中に阪神淡路大震災が起きたのです。
テレビはどのチャンネルも火の海、一体日本はどうなるのかと思いました。
阪神淡路大震災の方が多くの人の記憶に残り、三陸はるか沖地震は皆んなの記憶から薄れてしまった地震になってしまいましたが、私はあの恐怖を阪神淡路大震災のニュースが取り上げられる度に思い出します。
コメントありがとうございます。
大変な苦労をされたのですね。
今だから話せますが、当時は必死だったと思います。現場にたまたま居合わせて混乱した思い出は忘れられませんね。と同時に犠牲になったり怪我をされた方々が居ると思うと悲しいです。
あの30年前のまだ30代だったけど交通も止まり、当時数少なかったコンビニが全部閉まっていた景色は忘れられません。どうやって東京へ帰るか悩みました。
緊急用品を今でも常に用意していざという時に備えています。
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