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三頭山測站
・番號:果第十號
・所在:東京府武蔵國西多摩郡檜原村字数馬
・俗稱:三頭山
・所有主:帝室林野管理局
・地目:山林七一四六番
・順路:小河内村川野字岫沢ヨリ檜原村数馬ニ通スル道路ヲ登ルコト(小河内村河内ヨリ)約一里半ニシテ峠ニ達ス。夫レヨリ西ニ向テ道ナキ急峻ナル山腹ヲ登攀スルコト二十町ニシテ達ス。
・覘標:尋常方錐形
・標石:花崗石
・選定:明治三十七年五月十六日
・造標:明治仝年八月七日
・観測:明治仝年十月二十二日
・敷地:参坪
・班長:同上(果第9号と同じの意)
・検査掛:同上
・選定者:同上
・造標者:同上
・観測者:同上
・計算者:同上
・備考:猶、峠ノ北方二十町ノ下方ヨリ西ニ入リテ、山背ヲ登ルコト三十町ニシテ達スルヲ得レドモ、何レモ急峻ニシテ攀登容易ナラズ。
番号がこの三角点の冠字選点番号です。果10号ということ。小河内村川野字岫沢は今の「山のふるさと村」辺り。そこから数馬に抜ける峠は鞘口峠か風張峠のどちらか。三頭山の点の記だけではどちらとも言い難いですが、同日にお隣の月夜見山の三角点も選点していて、峠までの順路記載は同じです。で、峠から月夜見山迄八町と書かれているので、三頭山から二十町(一町=約110m)、月夜見山から八町の峠、つまり月夜見山に近い風張峠となります。風張峠から三頭山と月夜見山を往復したんですね。山のふるさと村から風張峠までは、今でも古くから使われた歴史を感じる道です。風張峠から三頭山までは道なんてなかったようです。山腹を登攀とあるので、都民の森辺りを行ったのでしょうか?。
備考に書かれているルートが微妙です。山背というのは尾根のこと。明治の点の記では尾根を山背と表記しています。イヨ山の三角点の記順路記載は岫沢を起点にしておらず、明らかに今のヌカザス尾根ルートを辿っています。その記載と比較すれば三頭山の備考ルートはヌカザス尾根とは思えません。鞘口峠に上がる道は終始沢沿いですから違うでしょう。となると該当するような尾根は御堂指尾根しかありません。今でも踏み跡レベルですが辿れる尾根です。(昭文社地図では赤点線もありません。三頭山側の分岐点の道標には”行き止まり”の表示あり。)
う〜〜ん。おツネさん伝説はどうなっているのでしょう?(写真参照)。古いいわれの残る三頭山を越える歴史あるルートと思っていましたが…。密会に出かけるんだから人に会わない裏街道を行ったのか?。三頭山より前にイヨ山の選点に行っているので、御堂指尾根などではなく、ヌカザス尾根からおツネの泣き坂を登って三頭山に行くルート記載があって然るべしという気がします。でないとおツネさんが泣きそう。ちなみに明治40年測図の五万図「五日市」ではヌカザス山手前で小径は途切れ、三頭山まで道は記載されていません。そもそも三頭山に至る小径が、どの方面からも一本もありません。
二等三角点の記はA4位の紙一枚ですが、三等三角点の記はその半分。一頁に二点記載されています。当然内容も少なくなりますが、点の記が更新されていても、また廃止になった三角点でも、片割の方が残っていれば明治の記録が読めたりします。班長、選点者、観測者などは、”同上”と書かれておしまいが普通なので、原則は同じ冠字の選点番号一が見れなければわかりません。果1号は高水三山の岩茸石山の三角点、果2号は御岳山のお隣の大塚山で、両方とも平成4年に更新されており、明治の点の記は読めません。今の点の記からは、三頭山は選点者が山岡勝太郎氏である事しかわかりません。但し、これはネット上での話で、点の記は永久保存のはずなので、国土地理院本院には旧版も保管されているはずです。
三等点の記でもっとも興味深いのは順路ですが、これは実際に現地を訪れた方を差し置いて私があれこれ書くのは僭越でしょう。且つ、行った事があれば、上述のように延々書き連ねる事になります。それをやるのも一興ですが、この一連の書き込みではほとんど触れませんでした。2〜3行の簡単な記載で距離が正確とは限らないので、解釈のしようが複数通りあり得ます。ご自身の訪れた三角点の記を国土地理院のHPから見て、読んでみると興味深い所を登っているかもしれませんよ。明治の地図と比較しながら登路をあれこれ推理するのも一興でしょう。運良く明治の記録が見れればの話ですけれど。(今後、何かの機会で更新が進めば、ネットでは見れなくなる点も増えるでしょう。)
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