散々書いておいて今頃ですが、二等三角点の記には何が書かれているか?。実例を紹介します。昭文社地図には赤点線すらなかった頃に、将監峠->竜喰山->大常木山->大ダルと辿った思い入れのある、竜喰山の二等三角点の記から。
二等三角點ノ記
・點ノ名稱:大常木
・國名:甲斐
・地名地種通稱所有主ノ明細:山梨縣北都留郡丹波山村大字大常木俗称大常木山林千四百四十六番 御料局所轄地
・選定ノ年月日:明治十七年十月、選定者:十三等出仕水野秋尾、仝 田浦安静
・観測スベキ方向(本點):(4)、雲取山、(6)[注1]
・観測ノ年月日:明治三十四年九月十五日、観測者:陸地測量手 宮崎和作
・標石
・構造法及石質:尋常形小松石
・盤石上柱石ノ高サ:零米七八四
・埋定ノ年月日:明治十八年八月、埋定者:十二等出仕 三輪昌輔
・覘標
・構造法:尋常方錐形
・構造ノ年月日:明治三十四年六月十八日、構造者:陸地測量手 宮崎和作
・覘標ノ高サ:柱石上面ヨリ錐体頂上迄五米八九
・覘標ノ敷地:四坪
・點ニ到ル順路其険夷、町村ヨリノ路程:山梨縣東山梨郡神金村大字市ノ瀬ヨリ武蔵國秩父郡大瀧村ヘ出フル將監峠ヲ上ルコト凡ソ一里強。夫ヨリ右折山背ヲ上ル凡ソ三十丁本点ニ達ス。市ノ瀬ヨリ路程凡ソ二里。
・材料準備ノ手段、其價額:仝(=同)上神金村大字市ノ瀬二於テ買収。落葉松丸太一本金拾五銭。栗板一坪金五拾六銭。
・傭人召集ノ手段其給料:仝上市ノ瀬ニ於テ召集。一人一日ノ給料金五拾銭。
・運搬ノ手段:凡テ人肩ヲ要ス。
・作業間捿宿ノ方法:天幕ヲ要ス。
・食料品ヲ取ルノ地、其路程:米塩ノ類ハ市ノ瀬ニ於テ得ベシ。
・飲料水ヲ挹ムノ地、其路程:市ノ瀬ヨリ本点ニ至ル凡ソ二十丁手前ニ於テ最モ凹所ナル所アリ。其ノ左方若クハ右方ノ谷ニ渓水アリ。
・障碍樹木ノ有無伐除ノ數其樹程:ツガ樹及雑木二十一本九尺〆八三伐除ス。
・測量ニ不可ナルノ季節其原因:十二、一、二、三月ハ積雪ノ害アラン。
注1:三角点には冠字選点番号と言うのがつけられるのが普通です。観測すべき方向の(4)とか(6)は大常木と同じ冠字の選点番号4と6を指すのですが、肝心の大常木の冠字選点番号が書いてないので、どこを指すかは不明。和名倉山は冠字が”志”で選点番号は4なので志4となります。(4)は和名倉山かな?。(6)は丹波天平か古礼山、柳沢ノ頭(柳沢峠)のいずれかと思いますが、前二者は飛龍山、唐松尾山に阻まれて無理と思うので、柳沢ノ頭じゃないかと思います。
大常木谷を詰めた先にあるのは大常木山で竜喰山は竜バミ谷を詰めた先にあります。恐らくは設置当初はその辺が良くわからず大常木谷を詰めた先と思って、大常木と言っていたように思えます。あるいは谷の名前を間違えたか?。明治43年測図の五万分の一地図「三峰」には山名表記なし。龍バミ谷は今と同じ表記です。
"東山梨郡神金村大字市ノ瀬”は今の”山梨県甲州市塩山一ノ瀬高橋”です。当時は神金村。同じく五万図「三峰」には今の一ノ瀬高橋から七ツ石尾根を登り、山の神土(=将監峠)、東仙波、和名倉山の脇を通り大瀧村に至る小径が書かれています。これを登ったようですね。一時期、和名倉山の先で和名倉沢に迷い込み遭難する登山者がしばしば見られたルートですが、100年以上前から秩父地域との交通路であったようです。当時の将監峠は今の牛王院平・山の神土辺りを言ったようで、”飲料水ヲ挹ムノ地”に記載の”最モ凹所ナル所”が今の将監峠、左方はともかく”右方ノ谷ニ渓水アリ”が今の将監小屋の水場ではないでしょうか。
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