では、尺貫法ばかりなのかと言えば、そうではありません。高さはなぜかメートル法です。
「大河原ヨリ六里山道ヲ行キ、二千三百米突許ノ峠ニ出ツ(大河原ヨリ甲斐ニ到ル旧山道ナリ。当時荒廃シテ路悪シク危険ナル個所往々在リ)。夫ヨリ一里半渓谷ヲ綴リテ下リ塩見山ノ麓ニ到リ、夫ヨリ半里急ナル谷川ヲ逆上リ(以下欄外)」(塩見山、長野県上伊那郡、明治35年設置)
この記録は距離は”里”ですが、峠の標高はメートル。標高を記載している明治の点の記は珍しいです。この「2300mばかりの峠」というのは塩見岳の点の記だけではどこだかわかりにくいですが、南側の小河内岳の点の記と併せて読めば、三伏峠(標高2607m)であることがわかります。1割強低めに見ていますが、まだ測量していないんだからこれはしょうがないでしょう。結構良く合っているんじゃないかと思います。
ちなみに小島烏水氏の「日本アルプス、白峰山脈縦断記(明治41年)」にはバロメーター(気圧計)で高度を見ていた記載があるので、測量官も持っていた可能性はあります。もしそうなら、外国産の高度気圧計に尺貫法の目盛りがあるはずありませんから、メートルになるのは自然だったのでしょう。もっとも高度の校正は難しかったでしょう。当時、正確な高度が解っていた地点は限られていたはずですから。
塩見岳へは三伏峠から三伏沢に沿って一旦下り、塩見沢を登り返したのだろうと推察できます。三伏峠から三伏沢に沿い塩見沢出合まで約3.1kmなので一里半(約6km)は結構過大。右往左往したのでしょうか?。この記録に限らず、明治の点の記の距離記載は過大なのではないか?と感じる例が結構あります。(もっとも、かなり正確に記載されている点の記もあります)
私は登山地図にルート記載のない尾根を登る事があります。その場合、計画上は平地の半分のスピードで登るとして、距離から時間を割り出します。実際に歩いてみるとこれで結構合います。踏み跡レベルでもそれで歩けるのですね。つまり、地図上の距離の二倍としてみれば、普段歩いている感覚で計画できる訳。明治の測量官の山中での距離感と一致しているようでホウと思った次第。地図のない当時は歩行時間から距離を割り出して記載していたのだろうと想像しています。なお、明治12年には日本でも懐中時計が製造開始されたそうなので、山中で時刻を知る事は可能だったはずです。
標高が記載されている例は少ないけれど、すでに記した二等三角点の記に記載の櫓の高さはすべてメートル法です。これは例外はありませんでした。櫓の材料の木材購入記録や伐採した木にサイズ記載があればすべて尺貫法です。これはそれで売っていて、それで言うのが普通だったのでしょう。尺貫法でわかっている材料で作り、立てるとメートル法で記載する。で、立っている木を切り倒すと尺貫法。ちょっと不思議な感じ。ともかく、目にした限りの高さの記載はすべてメートル法でした。縦か横かで表記単位が変わっちゃう。
明治から大正にかけて発行された五万分の一地形図の距離尺はメートル、町里両方が書かれています。標高の表記は全てメートル。点の記を読むまで、現代人の私でもこの表記で全く違和感はなく、考えた事もありませんでした。地図のない昔、距離は重要な指標だったけれど、標高はあまり意識されていなかったのではないでしょうか?。標高よりも坂のが緩急・長短だったんじゃないかな?。なので、標高そのものはあっさり新しい記述方法が受け入れて定着し、距離は生活に取り入れられていた方法での記載かなり長く残ったように思えます。
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