今回はメートル法のお話。まずはざっとおさらい。
明治8年にメートル条約締結。日本は明治18年にメートル条約に加盟、明治22年メートル原器交付、明治24年に度量衡法施行。尺貫法とメートル法の併用となります。両方使えたわけですね。尺貫法の廃止は大正10年。メートル法が義務付けられたのは昭和26年だそうな。
現実には
「覘標ノ高サ:六米突三一」名号村1(高土山、愛知県八名郡、明治19年設置)
と明治19年設置の点の記で既にメートル法記述があります。これは御園村(神野山、愛知県北設楽郡)も同じ。メートル条約加盟直後にはメートルが即座に表舞台に登場。お雇い外国人が尺貫法で測量術の講義なんかするはずないので、その前から使われていたのでしょうね。なお、内務省系はイギリス式を取り入れたそうなので、インチ・ヤードの世界だったはず。参謀本部系はドイツ式だそうなので、メートルだったと思います。ちなみに”米突”と書いてメートルと読ませたようです。今メートルを米と略記するのはこの名残ですね。
点の記には点に至る経路が書かれ、そこには距離の記載もあります。
「上寶村大字中尾ヨリ二等三角点波第十号中俣岳[注:双六岳]ヲ越ヘ山脈ニ沿ツテ行クコト二里許。鷲ケ岳ノ中腹ニ沿ツテ水晶山(又ハ黒岳トモ云フ)ノ山肩ニ登リ、夫レヨリ直下シ降ルコト一里半、夫レヨリ登ルコト三十四五丁ニシテ本点ニ達ス。」五郎岳(野口五郎岳、明治35年設置)
ここにあるように距離は町(あるいは丁)里で書かれています。当時は今の新穂高から野口五郎岳に行ったのですね。驚きです。ルート記載に限らず、人夫の雇入れ、食料調達など全て上寶村大字中尾と記載されており、高瀬川側から登ったと伺えるような記載は一切ありません。
ほとんどすべての点の記において、距離は尺貫法です。ですが、すべてそうなのかと言えば、例外があります。
「仝(=同)郡仝村仝字(秩父郡槻川村大字皆谷字大切)ヨリ至ルヲ可トス。仝地ヨリ本点迄約千五百米突。仝村ヨリ三沢村ニ至ル街道上見新田峠南方八百米突ノ山頂ニアリ。」(大霧山、奥武蔵、明治36年設置、石原嘉市測量官)
「大山村大字原村南端ニ於ケル立山温泉道路ヲ出デ西南ノ山道ニ入リ約五百米突ニテ西ニ通スル小谷ヲ登ルコト約千米突ニテ本点ニ達ス。道路頗ル急峻。」(極楽坂、富山県上新川郡、明治40年設置、片上盛測量官)
明治36年の石原測量官による奥武蔵北部一帯、明治40年の片上測量官よる富山県の点の記の距離記載は全てメートル法です。これ以外には距離のメートル表記は見つけられていません。両測量官の他の年の記録がどうなっているのか?興味のあるところですが、見つけられていないのでわかりません。お二方は当時としては新進気鋭の測量官だったのかもしれませんね。なお、片上測量官は柴崎芳太郎測量官の受け持ち区域の隣が受け持ち区域でした。柴崎測量官の応援も受けています。
恐らくは当時、距離は尺貫法で言うのが一般的で、案内人などもそれを用いたために、尺貫法で記載したのでしょう。ですが、尺貫法かメートル法か、明治の時代はその辺がおおらかだったようで、政府機関の公文書ですら、どちらで記載していても構わなかったようです。まぁ、法律上そうだったのですけれどね。
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