三角点は自然破壊?そんな大げさな……と思われる向きもいらっしゃるでしょう。ですが……
測量をするためには周囲を・から、見渡せなくてはなりません。今ではGPS測量なので、周囲が見えなくとも関係ないですけれど、当時は見えないと話になりません。森林限界以上なら樹木が視線を遮る事はありませんが、森林地帯では、櫓を建てたとはいえ、視線の障碍となる樹木を伐採しています。どれくらい切り倒したのか?明治の二等三角点の記にはそんな事も書かれています。例えば、
「測站ノ北方及ビ西方ニ於テ雑樹目通一尺四寸乃至五尺一寸長サ三間半乃至七間半、拾二本ヲ伐採ス。」(長澤、奥多摩鷹ノ巣山、明治33年設置)
という具合。12本位、しょうがないじゃないか、自然破壊なんて大げさな……と思われる向きもあるでしょう。
「雑木百三本ヲ伐除セリ。尚残木夥多アリ。」佐武流(長野県下高井郡、明治37年)
103本位、人の煩悩に比べれば5本ほど少ないだろう……、と思われる向きもあるかもしれませんね。
「無数ノ樹木アリ。?方向ノ為ニ約八百本ヲ伐倒セリ。一尺乃至九尺。」別当城(山梨県南巨摩郡、明治35年、”?”は判読不能。)
800本?江戸の町の数に比べれば8本ほど少ないだろう……、と思われる向きもありますかね?。それでは、
「満山総ヲ伐除シ尽クシタリ。」小手沢(福島県南会津郡、明治38年)
ここまで行くとさすがに……。そこまでやる必要があったのか?。”?”マークが点滅するでしょ。それにしても、ここまでやるのは大変な手間暇がかかった事でしょう。チェーンソーなんてありませんからね。相当な人数の作業員を雇う必要が生じ、お金もかかるはず。大体、切った木はどうしたんでしょうね?。小手沢山の標高は1519mあります。小さな山ではありません。ヤマレコの記録で山頂付近の写真を拝見するに、確かに樹齢高々100年程度の木しかないように見えます。100年ほど前に「満山、総てを伐除し尽くし」たのは誇張ではないように思えます。
当時の山奥は麓の村落の入会地だったケースも多かったようで、こういう調子では色々揉める事もあったようです。
「向三年間損害料金三銭ヲ拂フ。」(中河内村(四)、静岡県籠原郡、明治18年)
「向三年間損害料金九銭ヲ拂フ。」(入山村(二)、静岡県籠原郡、明治18年)
など、明治前半設置の三角点の記の中には、損害賠償をした事が記載されているものがあります。他にも「損害請求ナシ」と記述されている点の記も見かけます。伐採に起因する賠償と書かれている訳ではありませんが、他に損害賠償を求める原因が思いつかないので、おそらくは木を切った事に起因すると思います。明治の昔の国土基本地図整備のための三角点設置といえども、私権に対する損害の賠償をせざる得なかったんですね。当時の測量官はこんな事の交渉もしていたようです。「オラの土地で何するだ!」って感じの人達に応対したのかな?。
学制が発せられたのは明治5年、教育令が明治12年、学校令は明治19年です。明治6年の尋常小学校就学率は男32.9%、女15.1%。明治12年で男58.2%、女22.6%(文部科学省、学制百年史、小学校の普及と就学状況より)。明治18年の山村では、学校に行った事のない大人が多数派だったのはほぼ確実。国土の基本図整備がもたらす意義を説明するのは大変だったでしょう。明治三十年代の点の記には賠償の記載は一切ないので、公共事業としての法整備か何かがなされ、文句言うな!になったんじゃないかという気がします。それとも書かれていないだけで、賠償金を払ったのかな?。
コメントを編集
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する