またもや会社をサボ…計画年次を取って国土地理院関東地方測量部へ。例によって旧版三角点の記の閲覧です。
すると、色々と話が進展してまして、通達があったそうな。
元々、国土地理院で旧版の三角点の記が閲覧出来るのは、
測量法 第二十七条 3項
国土地理院の長は、基本測量の測量成果及び測量記録を保管し、国土交通省令で定めるところにより、これを一般の閲覧に供しなければならない。
が根拠で、このおかげで見せてもらえる様です。で、「基本測量の測量成果及び測量記録」とはなんぞや?となる訳です。これが、平成25年4月1日より「国土地理院地理資料閲覧規則第三条」によって、明治23年3月26日に陸地測量標条例の施行された以降のものとなり、以前の測量結果や地図は、測量法で言うところの「基本測量の測量成果及び測量記録」には当たらないと言う事になったらしい。ちなみに明治23年は基本図の縮尺を2万分の一から5万分の一に変更した年です。
で、該当してしまう場合は、地方測量部では閲覧出来ないので、つくばの本院に聞いてみて欲しいとのこと。最近、古い点の記(例えば中央線上野原駅北の鷹取山、点名高取山)がネット上では「点の記は保管していません」になったのはこういう理由のようです。(以前は明治19年の点の記が閲覧出来ました。)
が、そもそもそんな古い三角点の記を見ることは余り考えられていなかった様子。古い点の記をご覧になった方はご存じかと思いますが、設置以後の改測や改埋などで追記がなされている点があります。なので古い点の記は結構ややこしい。例えば、今日見せていただいた、丹沢山の一等三角点の場合、設置は明治18年で、そこで終わっていればアウトながら、明治24年の観測記録が記載されているのでセーフだそうな。
多摩川流域は大体書き写したので、相模川上流の中央線沿線などの点の記をお願いしましたが、この辺は結構初期に設置した地域で、明治18〜19年頃に設置が完了していて大抵アウト。偶々再測されているとセーフ。係の方が、点の記を見てあれこれ問い合わせをしていただき、これは閲覧可、幾つかは不可とお手間を取らせるハメになりました。一等点は設置後も何度か測量されている様で、大抵セーフ。二等点は偶々改測されていた点を除いてアウト。なんだかんだで7点筆写。一等点は記載事項が細かくて筆写が大変なんだよね。
又、前回、係の方に伺った所、旧版点の記の謄抄本発行は出来ないとの事でしたが、これは勘違いで、閲覧可の点の記の謄本発行は出来るそうです。一点200円なり。今日、筆写し終わる直前で教えていただけました…。
今回は、疑問があったので、熊伏山(長野県飯田市、一等点)の旧版点の記も見せていただきました。今、ネットで見れる点の記では、埋標:明治28年11月12日、柴崎芳太郎氏になってますが、これが疑問。柴崎氏は修技所を明治37年卒業なので、これでは修技所に入る以前から測量をしていた事になってしまいます。旧版を見ると、標石埋定は明治28年9月23日、古田盛作氏。改埋が明治38年11月12日、柴崎芳太郎氏と記載されてました。点の記更新の際の単純な写し間違いですな。柴崎氏は明治38年は愛知、長野、岐阜の県境付近の三等点設置・観測を担当された後、熊伏山の一等点改埋、その後、この付近の三等点の観測応援をされています。"二"じゃ無くて"三"ではと思った通りでした。
まったく、山にも登らず何やってんだか.....。でも、そろそろつくばの本院に行ってみるしか無いな.....。遠いなぁ。
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