本日、またも会社をサボっ…計画年次を取って、九段の国土地理院関東地方測量部に行って来ました。多摩川流域の一〜三等三角点の記(明治版)を書き写す為。今日で全部揃う予定だったので、ラスボスの雲取山の点の記も写してきました。
今日、閲覧できた雲取山の点の記は、書式が明治30年代のものと一致するのと、明治32年の日付が記載されているので、明治31,2年に再観測された際に改版された記録と思われます。明治37年に改埋された記録までが追記されていました。どうも明治15,6年に内務省が設置したときの点の記はない様子。筑波の本院に行けばあるのかも知れませんが……。
雲取山の三角点設置は終始鴨沢を起点としてなされたようで、鴨沢以外のルートを辿った痕跡は一切記載されていません。鴨沢ルートも今と同じか?と調べて見ると...。
明治20年輯製、明治27年脩正の20万分の一輯製図「甲府」では、小袖川沿いに行き途中で赤指尾根に上がり雲取山に至る点線あり。こんな道が書かれた地図は今ではありませんが、元々この地図では今の七ツ石山に相当するような所に雲取山と書かれ、長沢背稜やら三峰への接続はどう成っとるんじゃ?的地図なので余り当てにならず(但し、雲取山に初めて三角点を設置したときには、この程度の地形概念で登ったハズ)。明治43年測図の五万分の一「丹波」では、今の七ツ石小屋を経由して七つ石山を経由して行く以外は今と同じルートが書かれています。多分、こっちが点の記と符合するルートなのでしょう。七つ石山を経由するか巻くかだけが今との違いのようです。
元々の順路記載は恐らくは明治15,6年の設置当初の点の記から転記したものと推定しますが、鴨沢->雲取山三角点までで凡そ四時間半を費やすとのこと。これは今の山と高原地図のコースタイムを足し合わせたのと同じです(七つ石山は巻きますが)。荷物をどれ位担いだのかは書かれていません。更に追記で明治32年の記録が有り、人夫一人に八貫目の荷を背負わせて六時間掛かったと書かれています。八貫=30kg。30kg担いで6時間なら、今の人でも出来る人はいるように思います。私ではそもそも30kgが無理ですが…。死んじゃう。
山と高原地図のコースタイムと同じというのが意外でした。明治の人はもっと速いと思っていたので。道はあったかのように書かれているので、決して藪をかき分けと言う訳ではなかったようです。条件的には今とそう変わらない様子。
鴨沢には酒造家の家があったと言うのも収穫。どこにあったんだろう?。あそこで酒造業が成り立ったんだろうか?。米は取れなかったと思うが....。需要はあったでしょうけれどね。
残念ながら高尾山の二等三角点は、昭和47年に再設されたためか、地方測量部では明治の記録が出せないとのこと。なので、これがオアズケ状態。もう一点、陣馬山に三等三角点があったハズなんですが、いつの間にか消えてます。点名がわからないのでこれまた検索できずオアズケ。筑波の本院に行くしかないですかね。
さて、昔の地図を見ながらASCIIファイルに打ち込んで行かねば。それにしても毎度ながら書き写すと手が痛い。10点位が限界。肩もすごく凝りました。5時間以上掛かった。大学受験の頃だって、こんなに書き写したことはなかったなぁ。
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