明治の設置当初の三角点の記を読んでます。
北海道の積丹半島にある二等三角点「両古界」(標高783.8m)の点の記(青木輝陸地測量手。明治43年)の備考から。
「通路ノ大部ハ溪流ヲ泝ルニ在リ。而メ(?)数時間ノ降雨ハ此溪流ヲ汎濫セシメ、通路全ク断絶スルノ悲運ヲ生ス。本測量係ハ観測ノ際、九日間ノ連続降雨ヲ享ケ、一行拾一人糧食盡クシテ蕗薹(?)ヲ食塩ニ煮テ、辛フシテ餓ヲ凌キタルノ悲劇ヲ演シタリ。後続作業者特ニ此点ノ注意ヲ要ス。且ツ猛獣ノ出没甚シ。必ス案内人ヲ要ス。」
山中の三角点設置も登山ですから、一般的な登山の危険は当然ある訳です。当時、沢沿いに登るのが一般的だったようで、多くの点の記の順路記載は沢筋ルートになってます。「両古界」も古平川支流の下二股川を辿るルートが記載されています。1000mに満たない山ですが、登るのにはかなり苦労をしたようで、青木測量手は「最モ険悪ナル山ノ一ナリ。」と記載されています。で、登ったは良いけれど、降り込められて、沢筋を戻れなくなっちゃったんですね。標石の理定は7月27日で、観測は8月3日でこの間8日間。7月27日に標石埋定し、雨となって閉じ込められ、多分、ヒグマにおびえ、食料が尽きてその辺の食べられそうな草(フキノトウでしょうか?複雑な手書き漢字は判読が難しいです)を塩水で煮て食べ、空きっ腹を抱えて最後の晴れ間(8月3日)に観測して帰って来たのはご立派と言えば良いのか、見事な職業意識と言えば良いのか。ちょっと現代人の感覚では表現しにくいですね。現代人の目から見れば「遭難者」と言ってもおかしくないでしょう。今ならニュースになってマスコミに叩かれそうな気がする。明治43年は1910年。今から107年前です。
尚、この記録、測量隊一行が11人であったと記載してくれているありがたい記録。実際のところ、何人で作業したのか?ハッキリ解る三角点はそう多くは無いようです。点の記に記載されているのは稀なようで、1700点程の明治の点の記を読みましたが、書かれていたのはここだけ。標石の理定と観測は、覘票の櫓を建てる程ではないにしても、結構な荷物になった筈。それが11人と言う事は、おそらく雇った作業員は8人は居たでしょう。日当一人一日70~80銭と書かれているので、75銭×8人×9日=54円位。雨さえ降らなければ半分以下の日程で終わり、選点、造標(櫓を建てる作業)も同程度の日程とすれば、二等点の選点、造標、観測、埋標の作業員を雇うだけで、50円位は掛かっただろうと思われます。明治後半の物価上昇って猛烈なので(日当や覘標の材料費で解ります)、明治30年頃なら30円位かな?。
この点の記は国土地理院のHPから「基準点成果閲覧サービス」に行けば読めます(要ユーザー登録)。ヤマレコの全ルート検索では、下二股川にトレースがありますが、検索では引っかかってきません。どんな所なんだろう?。見れないのは残念。
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