有峰湖の西にある二等三角点「瀬戸谷」の点の記(古田盛作陸地測量手。明治36年、1903年)から。この点の記からは、今は湖底に沈んでしまった有峰集落の貧しさが忍ばれます。
まずは、宿泊場所。
「作業中根宿ハ有峯村ニ定ムル外ナシ。民家十四五軒アルモ、何ツレモ汚穢ヲ極メリ。」
山奥の集落の民家が不潔で泊まるに堪えないような記載はまま見かけます。ですが、結構な数の明治点の記を見ましたが、「汚穢ヲ極メリ」とまで書かれたのは見かけませんでした。で、食料品の調達。
「東茂住村ヨリ準備ノ外ナシ。米塩ノ類皆ナ然リ。道程約六里ナリ。但、時ニ依リ大夛和ニテ米味噌位ハ便スルコトアリ。凡三里。」
古田測量官は有峰に至るのに、岐阜県の神岡から跡津川沿いに大多和集落(夛=多)、大多和峠を経由したようです。大多和も貧しかったようですが、有峰で米や塩を入手することは出来なかったみたいです。米はともかくとしても、塩なしでどうやって生活していたのか?(漬け物などの当時の保存食には必須だと思うのですが)。わずかに入手したものを、大事に使っていたのでしょうか?
ちなみに、人の塩消費量は野生動物と比較してかなり多いはずです。塩なしでは生きれないと言いますが、同じほ乳類の熊や鹿が山中で塩を得られる機会はそうないと容易に想像付くでしょう。カップ麺の残り汁でも野生動物には貴重な塩分補給ネタ。地面をほじくり返す輩が現れるので、その辺に捨ててはいけませぬ。
順路記載には上滝から和田川か小口川沿い(水治村というのがどちらの川沿いなのかが良くわかりません。明治の地図を見れば一発でわかるんでしょうが。)に有峰に至るルートの記載もありますが、少々頼りないルートだったようです。当時の唯一の連絡手段、郵便事情の記載から
「上新川郡上滝局ヨリ配達ス。毎年五月ヨリ十月迄ノ間、一週ニ一回位ナリ。十一月以后翌四月頃迄ハ積雪ノ為メ行通杜絶ス。故ニ甚タ不便ナリ。又発送卸書ハ東茂住局ヘ出スヲ便トス。」
5〜10月は週一位で郵便が届く。11〜4月は陸の孤島状態。冬はじっと耐えるしかなかったのでしょうね。病気になってもお祈りするしかない。よく住めたなぁと言う感じ。
ヤマレコには瀬戸谷山のトレースは冬期のお一方のみ。大多和峠から登られたようですが、点の記記載ルートとは多分異なります。点の記には、多分、瀬戸谷を詰めたのではないかと思われるような記載がされています。(有峰集落が今の有峰湖底のどこかが良くわからないので解りませんが。これまた明治の地図を見るしかないか。)
この点の記は国土地理院のHPから「基準点成果閲覧サービス」に行けば読めます。
コメントを編集
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する