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一見さんで、一つの山に登ったら次は…という方は余り興味は無いかもしれません。一つの山域に何度も足を運び、ある程度以上、その山域を知っている方は興味が尽きないのではないかと思います。
ご存じない方は分からない話ですが、例えば私の良く行く奥多摩の奥地では…...、
黒川鶏冠山から黒川金山跡を通って、三条新橋に降りる時、最後の方で林道のような所を通ります(写真左。山と高原地図「大菩薩嶺」2013年版では(危)林道崩壊と書かれた部分)。横から崩れて来ていたり、落石と思われる石が転がっていたりして、「もう、林道作ってもロクに手入れもしないんだからぁ」って感じの所ですが、明治末~昭和初期の地図を見て、これが旧青梅街道の成れの果てと知りました。
今の青梅街道は、三条新橋から藤尾までは丹波川(=多摩川の上流)の左岸に道がつけられています。が、明治〜昭和初期の地図を見ると、この部分は右岸に道がつけられており、この"林道"とピタリ一致する所にあります。黒川谷から先は鶏冠山から降りて来る尾根、1216mピークの裾(標高1000m付近)をぐるっと回り、今の藤尾橋(写真右、今の2万5千図でも橋の記号あり)の所で柳沢川を渡って左岸に移ってます。付け替えられて廃道なんだから手入されない訳です。
藤尾橋の対岸を見ても、集落等の適地があるようには思えず、山の北側の斜面ですから、日当りも悪いはずで、対岸に用事もないだろうに、どうしてこんな立派な橋が……、と不思議だったのですが、これで謎が解けました。少なくとも昭和の初期までは使われた青梅街道の橋だったのなら納得出来ます。
黒川金山は1750年頃に廃坑状態だったらしいですが、実際には1950年頃まで、一山当てようと言う山師はいたらしい。そうでなくとも、山深い所で他には林業等しかない所の金山というのは重要な産業拠点だったハズで、江戸期までの道も金山を中心に発達し、他にめぼしい産業もなければ、そのまま細々と継承されただろうというのは容易に想像出来ます。そう考えると、一度黒川谷の方に進み、金山への道を分け、藤尾に至るというのは、妥当なルートと言う気がします。今のように左岸を伝って行ったのでは不便なはず。
明治の地図では、柳沢峠から、六本木峠を経て黒川山の南を巻き、黒川金山跡に至る道も書かれていました。かつてここを通った時、ただの水源林巡視路だと思ったのですが、不明でした。ここはその昔のゴールド・ロードだったように思えます。昔の人の足なら、五郎田の辺りから寺尾峠に上がり、六本木峠を越えて黒川山を巻き、金山に行くのは比較的容易だったはずです。ある程度の荷物を背負っても日帰り可能でしょう。武田信玄の昔は「産業道路」だったのかもしれません。
他にも奥多摩地区では、大菩薩峠から関東平野へのルート、笹尾根の南北の交易路、日原谷へのルートなど、興味は尽きず、色々と想像をかき立てるものがあります。田部重治氏などの明治末期〜昭和初期の山行記録と照合を取るのも興味深い。可能であれば、地図に出ている昔のルートを辿ってみたい気がします。
良く行く奥多摩地区の明治〜昭和初期の地図を何枚か購入して来ました(一枚500円。行けばその場で購入可能)。明治中期の地形図は無いようなので(上高地・槍ヶ岳のもっとも古いのは大正元年測図の物のようです)、ウェストンなどの記録と照合するのは無理かもしれません。
ご興味のある方は、一度訪れてみては如何でしょう?
こんばんは
古い地図も売ってるんですね
神田の古本屋で何枚か購入したことありますが、昔の地図が新品?で買えるとは、マニア?には、たまりませんね
araigengaさん、こんばんは
下記のURLから辿って、見たい所の5万図or2万5千図名をクリックすれば、過去の図歴リストが見れます。
http://www.gsi.go.jp/MAP/HISTORY/5-25-index5-25.html
リストに載っている地図は、その場でディスプレイで見れます。確認して欲しい地図をリストアップすると、一枚500円で買えます。正確に言うと、地下一階の売店で印紙を購入し、その印紙と交換出来ます。(測量部は9F)
山岳地帯の2万5千図は古い物が無く、明治期まで遡れるのは5万図だけのようです。また、最近のカラーの地図はつくばの国土地理院まで行かないと手に入らないようです(関東地方測量部では白黒になってしまう)。
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