田部重治氏の「山と渓谷」(岩波文庫版、ヤマケイ文庫版には出ていない)には、明治45年3月末に丹波山村から大菩薩嶺に登り、丸川峠に行くはずが大黒茂谷に迷い込んで九死に一生を得た紀行が出ている(甲州丹波山の滞在と大黒茂谷)。それによれば、田部重治氏は丹波山から大菩薩峠への道は知らなかったようで、宿で立派な道があると聞き、登ってみる気になったそうだ。そして登って行くと小菅からの道と合流したと書かれている。つまり、小菅からの道があるのは知っていたと見える。
明治43年測図、大正2年製版の5万分の一地図「丹波」を入手した。明治の図式では、小径は破線一本。その上が"間路"と言うそうで破線二本。その上が"聯路"と言うそうで破線と実線の二本線。この地図では、大菩薩峠からフルコンバ・赤沢登山口を経て小菅までの聯路が記載されている。結構立派な道だったらしい。大体、今の登山路と同じルート。脱線するが、この道は今歩いても、馬に荷を背負わせて引いて歩く事が出来たであろう位の片鱗は感じられる。そしてフルコンバからノーメタワ・追分・藤タワ経由で丹波山村への道は小径すら書かれていない。つまり、田部重治氏が丹波山からの道は知らずに、小菅からの道を知っていたのと合致する。入手した明治の地図は田部重治氏が携行したハズの地図と基本的に一致している事が知れる。
大菩薩峠で案内人を帰してしまったそうだが、明治の地図では大菩薩峠から丸川峠まで、全く道は書かれていない。小径もない。丹波山からの道も書かれていないが存在していた訳で、書かれていないからと言って道が全くなかった訳ではないと思う。が、どう続くか仔細は解らない訳で、案内人を帰すのは結構無謀なようにも思える。地図に書かれていなかった丹波山村からの道は、江戸期の青梅街道だからかなり真っ当な道で、そこまでの状況で案内人がいなくとも辿れると思ったのだろうか?。一応、帰す前に柳沢峠までの道を尋ね、その時は柳沢峠に至る尾根も見えたと書いている。これはちょっと疑問で、見えていたのは唐松尾根だったのじゃないかと言う気がする。今度行く機会があれば確かめてみたい。
とは言っても、雷岩までは尾根筋を伝って登って行けば良い話で、これは間違いようのなかったはずだ。問題は大菩薩嶺から丸川峠までで、今のルートは一旦北尾根に入り、2000m付近で尾根を左に外して斜面に入り、Z字型に下って1900m位で丸川峠への尾根に乗る感じになっている(実際は尾根の10m程下を通る)。今はちゃんと道が付けられているので迷うことはないだろうが、その昔はもっと頼りない道だったとすると、地形的特徴に乏しい斜面を、誤り無く行くのは結構難しい。そして、田部重治氏の訪れた時には雪が残っていたと言う。であれば、トレースがなければなおさら難しい。
大菩薩嶺の山頂を出発したのが午後三時過ぎ。三月末なら六時頃には日没で、この日は落合まで行く気だったらしい。どうも山頂での景色に見とれて出発が遅れたらしいのだが、結構焦っていただろうと容易に想像がつく。山頂で時間を過ごしてしまったのは痛いミスと言って良いと思う。大菩薩嶺から青梅街道のある柳沢峠まで、今の登山地図のコースタイムでは三時間程だが、それはちゃんと道があると知れている所を、迷い無く辿った場合の話。地図に道の書いてない所を行く気なら、もうギリギリで余裕がなかったのではないか。順調に行っても落合に着くのは日没後のはずだ。懐中電灯、あるいはカーバイトランプはあったのだろうか?
明治の地図には道が書かれていないので、昭和4年の地図を見ると、大菩薩峠とフルコンバの間から、1900m付近を略水平に大菩薩嶺の北側を巻いて丸川峠に至る小径が書かれている。そして大菩薩嶺からは北尾根に乗って1900m付近まで下る小径が書かれ、この水平に巻く道に合流している。大菩薩嶺からは北尾根を1900m辺りまで下り、斜面を丸川峠方面に行くルートになるようだ(これまた脱線するが、今は1900m付近の大黒茂谷源頭が派手に崩落してしまったので、折り返して登り、一段上を行く道に付け替えられたような気がする)。大菩薩嶺の頂上から尾根上を丸川峠に直接行く道は書かれてない(これは今も同じ)。紀行の約20年後の地図だが、大体同じようなルートだったのだろうとすると、北尾根を降りるしかなかったはずだ。
田部重治氏も西の丸川峠への尾根には行けず、北側から少し東寄りの尾根を辿るしかなかったと書いている(つまり、北尾根に道か踏み跡かはあった訳だ)。出だしで北尾根を辿ったのは間違いない。どこかで左に尾根を外す必要がある。それは認識しただろう。そのうち尾根は俄然低くなっていると書いているのでどの辺まで下ったのだろう?。北尾根は1970mくらいが緩傾斜で、水平に巻く道があったとすれば、この辺りだったように思う。昭和4年の1900mの等高線に沿っての巻き道では大回り過ぎる気がするがどうだろう。1950mを過ぎると100m程一気に下る。明治の地図では「大菩薩嶺」と書かれた「大」の字がこの辺の微妙な等高線間隔を消しており読み取り難い。1850m位まで下ったような気もするが、そこまで行けば、西側に丸川峠への尾根が見え、ハッキリ行き過ぎたと認識出来たんじゃないか?。樹林の中で見えなかったのだろうか?。3月末なら新芽は出ていなかったと思うが。
実際に、北尾根のどこかから大黒茂谷へと降りて行ってしまうのだが、行き過ぎて強引に左に尾根を外して降りてしまったのか、結構良い所で尾根を外したけれど、源頭部の斜面でルート・ロストして降りてしまったのか、紀行からは読み取れない。「尾根は俄然低く」から行き過ぎたように思えるが、どうだろう?。
明治の地図は、印刷技術の問題で今の地図より見難く、また5万分の1と縮尺が粗い上に、微妙に地形が異なっているとは言っても、大筋では正しい。途中からは間違いなく大黒茂谷へと降りて行っているのは認識出来たはずだ。稜線に雪が残っている季節に北側の谷へ下ればどうなるか?。少し山をかじった人なら想像がつくように思う。腰まで雪に埋まったらしい。おりた時の光景は今思い起こしても、ぞっとすると書いてある。田部重治氏も書いているが、丸川峠への道を探し出せなかった時点で、大菩薩峠に戻り、フルコンバ付近の杣小屋に戻るしかなかったのだ(当然ですが、当時、介山荘も賽の河原の避難小屋もありません)。北尾根に乗っている間ならその決断が出来たが、降りてしまってからでは手遅れ。
結局、大黒茂谷を遮二無二下っている途中で日没時間切れでビバークするハメになり、翌日に倒れる事になった。この時代の防寒具だから、相当厳しいビバークだったと想像される。濡れて火はおこせなかったようだ。同行者が三条新橋まで救助を求めに行き、炭焼きに入っていた人に助けられている。明治の地図に大黒茂谷に道は無いが(紀行からもまだ大黒茂林道はなかったと読める)、泉水谷は丸川峠から三条新橋までの小径が書かれている。今では左岸を行く立派な林道があるが、当時はこれとは違い、右岸沿いを下る小径だ。大黒茂谷へと下っている途中からは、この道をアテにしたのだろうと推測される。同行者が助けを求めに急いだ道もこの道のはずだ。
結局、無為に時間を過ごしてしまって焦り、下りのルート取りのややこしい所でロストしてしまい、道に迷って余計に焦り、谷へ降ると言う初歩的なミスを犯して、雪と谷筋の険しい地形と格闘するハメになって消耗し倒れたと言う事のようだ。当時、田部重治氏28歳。登山を始めて4年目。今から100年程前の登山情報が流通していなかった時代だ。登山人口も遥かに少ない。地図に道は書かれていない山中を目指すバイタリティは大したものだが、当時の地図と紀行を見ながら仔細に検討すると、今では常識とされる登山のセオリーを無視しているのが伺える。現代でこんな登山をして遭難救助騒ぎになっていれば、初心者の無謀登山として叩かれるんじゃないか?。当時のこの登山に対する評はどうだったのだろう?知りたいものだ。
ちなみに、当時は"遭難者"ではなく、"行き倒れ人"の方が一般的だったらしい。田部重治氏も"行き倒れ"にされている。春日俊吉の日本山岳遭難史は昭和8年刊。いつから登山も遭難者と言うようになったんだろう?
名の知られた登山家でも、始めは初心者であった。当たり前と言えば当たり前。失敗も含め、経験を積んで熟達して行った。これも当たり前。その当たり前を改めて知った。雲取山と雲取山荘の間に田部重治氏のレリーフがある。
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