きょうの気温はついに20度! 私は次の山行の準備運動として速歩のウォーキングをしていた。暖かいというより暑すぎて真夏のような大汗をかいたが、コロナ禍のことなど一瞬忘れてしまうような平和な1日だった。
2011年のきょう3月11日は春まだ遠しといった肌寒い日だった。
あれから早9年。気がつけば10回目の春である。
その日、自分がどこにいて何をしていて、どんな行動を取ったか...
そんなこと普通覚えているものではない。しかしあの日のことだけは脳裏に鮮明だ。
私の家は関東の内陸寄りなので、幸い大きな被害は受けていない。だからこんな投稿をする資格などないかも知れない。が、人それぞれのレベルであの日を心に刻んでおくのは、決して意味のないことではないと思う。
因みに私は、震災で甚大な被害を受けた岩手県釜石市で子供時代の7年間を過ごしており、津波で同級生も一人亡くなっているので、多少なりとも「他人事ではない」感を持っている。
これまで一体何人の人に「地震のとき何してた?」と尋ねたことだろう。恐らく20人は下らないと思う。が、誰一人として「覚えていない」と言う人はいない。全員が即答する。
「家にいたが慌てて外に出た」
「映画館で映画を見ていたが映画が中断された」
「スーパーにいたが、棚の商品がバラバラ落ちてきた」
皆さん漏れなく、あの前後の状況をスラスラ説明できるというのは、ある意味驚きである。
私はと言えば、地震が起きた瞬間は車を運転していた。
当時埼玉の妹夫婦に預けて面倒を見てもらっていた母に月イチぐらいで会いに行っており、その日がそうだった。茨城の家から埼玉に向かう中間点ぐらいで、ソレはやってきた。
走行中の自車がいきなりバウンドし始めた。一瞬何が起きたのか分からなかった。
え? 何これ。パンクした?
とりあえず車を止めたのだが、それが大地震だと悟るのに時間はかからなかった。そばにあった電柱が大きくかしいで、電線が波打っている。身の危険を感じた。急いでラジオをつけると、
「東北で大きな地震」。次いで「大きな津波が発生する可能性があります」。
やはり只事ではなかった。道路はすぐに大渋滞が始まった。それでも目的地の妹宅を目指そうとしたのだが、にっちもさっちも行かない道路状況に、諦めて帰宅することにした。妹とは固定電話、携帯とも全く繋がらず連絡が取れない。母が認知症ということもあり、心配で仕方なかった。
諦めた地点は通常なら自宅まで1時間ぐらいの場所なのだが、結局4時間かかった。途中弁当を買おうとコンビニに寄ったら、大行列の上に、商品の半分以上がすでに売り切れていた。
帰宅して、コワゴワ玄関を開けると、テレビが置き台から転げ落ちていたり、戸棚の扉が開いて中の物が全部飛び出していて、先祖代々伝わる陶器の美術品も割れていたり... およそあり得ない状況に息を吞んだ。自宅にいたらさぞかしパニクっていたことだろうと思った。
私の住む茨城南部は普段から地震が多く、震度3クラスならざらに起きるのだが、さすがにここまでの光景は見たことがない。
後日談として、一番困ったのはガソリン不足。そこらじゅうのスタンドというスタンドを必死で駆けずり回ったことも記憶に新しい。
さて、母の話に戻るが、その日はデイサービスで介護施設に預けられていて、ちょうど施設の送迎車で妹宅に着いた頃に地震が起きたという。妹宅はマンションの13階なのだが、地震発生と同時にマンションのエレベーターが停止。介護施設の職員の方が車椅子ごと13階まで外階段で母を運んでくれたという大変申し訳ないエピソードまで聞いた。
既に認知症が進行していた母は、大地震のことなど認識できていなかったはずだ。しかし、何が起きているかも分からないうちに大けがをしたり亡くなってしまったりするのは可哀想なので、身体が無事だったのは何よりだった(その後母は2015年に他界)。
政府はこのほど「復興庁」の設置期限の延長を発表した。当初は来年3月限りで廃庁の予定だったのをさらに10年延ばすということだが、当然の措置だろう。昨日から今日にかけ、震災の検証番組の類があちこちで放送されているが、復興はまだまだ道半ばといった状態だし、未だに避難生活を強いられている人が4千人以上いると言う。果たしてそれがあと10年でゼロになるのだろうか。政府には最大限の努力をしてもらいたい。
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