20代、30代の頃はよくあちこちの山へ行っていたが、その後、仕事が忙しくなったりするうちにいつしか山から遠のいていた。40代、50代はほとんど山を登ることはなかった。が、60代になり、この3月末ぐらいからなぜだか再び山へ向かうようになり、ほぼ3カ月が経過した。まだふり返るというほど時間は経っていないが、それでもいまと若い頃の登山とでは早くも多少の違いが生じているように感じている。
山登りの目的や愉しみをどういうところに置くかというのは人によって異なるわけだが、若い頃の私の関心事は、もっぱらピークハントだった。どこかへ遠征し、ともかくも頂上を踏む。それが最大の目的になっていた。
もちろん、山々の胸のすく景色には感動を覚えたし、小さく可憐に咲く高山植物に心を寄せもした。しかし私の場合、さまざまある登山の魅力のなかでも、〇○山を踏破し、△△岳を登頂するということが他にもまして最大の目的になっていたように思う。登頂の経験値が増えていくことで、なにやら素人から岳人の領域へと少しずつ成長しているような感覚を抱いていたのだ。
いまでもその傾向は多少残っている気はするが、現状それよりももっと自分の関心が向いていると感じるのは、フィジカル面である。やはり、この年齢になってくると、健康に対する意識が通奏低音のように常に流れている。すでに常用薬が必要な身となり、日々の睡眠の質もかつてに比べて確実に劣化している。老いというものが日一日と進んでいることを折に触れて感じさせられる。
そういうなかで復活した登山である。とりあえず3カ月ほど山々を登ったいま、自分のなかで「山に登る」ということが「健康を維持・増進する」ということに直結していることを意識する。これは、若いときにはなかった感覚だ。きのう二上山に登った、今日は金剛山に登ったという事実が、ちょっとオーバーにいえば、そのぶん若さを維持し、老化を遅らせている証明みたいに捉えられているところがある。もちろん、それだけが目的や関心事のすべてではないが、かつてより大きくなっているのは間違いない。
これは老いの哀しさなのだろうか。健康の維持・増進が登山の目的のかなりの部分を占めているなどというと、いかにも年寄り臭く、登山にはもっと前向きで楽しい要素がいっぱいあるでしょ、とアドバイスされるかもしれない。そんなことはこっちも重々承知しているのだが、事実そうである以上は否定したところでしょうがない。それがいまの偽りなき自分なのだと受容し、つき合っていくほかないと開き直っている。
もっとも、フィジカル的には前向きな変化も生じている。登山を再開させた当初と比べて、能力が向上していると思われるのだ。再開直後は二上山でもけっこうしんどかったが、いまでは二上山であればさほどの苦なく登ることができる。一昨日、金剛山へダイトレルートで登ったが、山頂に着いてもまだ十分余力があった。二上山くらいなら帰りに追加で登れそうだった。
体形も変わってきた。おなかがへっこんできた。足が筋肉質になってきた。二階へ上がるのに階段が身軽になった。少しずつ自分のフィジカルが強化されていることがわかる。これはこれでひとつの歓びである。「健康の維持・増進」と「フィジカルの強化」は似て非なるところがあるような気がするが、いまのところ両立できているようである。
といっても、もはや20代、30代の頃には戻れない。それも事実だ。あまり自分に期待しすぎても空振りするだけになろう。登山のほかの魅力もせいぜい愉しみながら、長く山々とつき合っていければ、と願っている。
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