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高校は今年、約1世紀ぶりに甲子園優勝したあの学校である。と言っても今のようなエリート校ではなく、東京でのランクで言うと国立、武蔵・開成、に次ぐ第3番手という感じであった。事実、学芸大附属、開成も受けたが落ちた笑。
思い出をいろいろ書けばキリが無いが、山のことに限れば、なぜ山岳部に入らなかったのか、今考えれば不思議である。まあ中学時代、体育会系の部活はやってなかったので敬遠したのかも。
で、部活は柔道B級と言うのに入った。
山に限ると言って申し訳ないが、格闘技・武術との縁についてもちょっと書きたくなった。
元々私は気が弱く喧嘩でも弱くてすぐ泣くと言われており、そのために逆に強くなろうとする気が満々であった。と言っても殴り合いはさすがに怖いので小学校では相撲ばかりしていた。スポーツ観戦でも相撲、プロレス、ボクシングが好きでチームスポーツであるサッカー、ラグビーには全く関心がなかった。
B級というのは、我が校は巨大高校(アルファベットベットでAからR組まであった)だからか、いくつかの部活では対外試合が目的のA級、中学で運動部に入ってない初心者向きの対外試合のないB級があり、その中で格闘系を選んだら柔道部になったというわけ。
さて山のことに話を戻す。高校での単独山行は2回と思う。一つは奥多摩で馬頭刈尾根から大岳山、もう一つは六甲ロックガーデンから最高峰であった。どっちが先であったのかはもうわからない。それ以外に、友達と行ったのは1年の時のY君と行った丹沢表尾根、今でも付き合いのあるI君、N君と行った志賀高原笠ヶ岳、岩菅山である。
また思い出したことを書く笑。
丹沢表尾根について、これは本来T君と三人で計画した2泊3日の旅行のはずであった。私を含めたこの三人は実は中学からの同級生でしかも同じクラスになったので自然に親しくなり、夏休みにどこか旅行には行こうという話が丹沢登山を私の発案で計画した。1日目は表尾根を縦走して大倉泊り、2日目はモミソ沢(後で書くが、大学1年の時単独遡行)、また大倉泊りで3日目は大倉尾根から鍋割山であったと思う。今考えても充実した、いや欲張り過ぎた計画かもしれない。ところがまずT君が子供達だけでの泊り旅行はダメという親の反対で抜けた。次にY君が親戚のおじさんの話として、「子供達だけで丹沢にいくなんて死にに行くようなものだ、道などなく霧が深くて全員でロープに捕まってないと脱落して迷って遭難してしまう」と聞いたという。まあ、戦前のバリエーションルートとかの話なんだろうが…
Y君にはガイドブックを見せて、表尾根は今はもう各山頂に山小屋があるほどのポピュラーなハイキングコースだということをなんとか納得してもらった(多分おじさんにも)。
さて表尾根である。当日は少なくとも雨てはなかった。当時はヤビツ峠までのバスはなかったかまたは極端に本数が少なく、蓑毛からの歩きだった。二の塔までの登りがキツく、小屋で休もうと入ったらお茶と漬物を出されて、なんと親切かと感激していたらしっかり休憩料を請求された。あとは大倉尾根の降りは今のような木段も石段もほとんどなくて、滑りやすい赤土の道に二人とも何度も転んだことを覚えている。
私は十分満足だったのだが、Y君はどうだったか?結局彼は登山のすぐ後、週7日活動の体育会A級テニス部に入ったのでだんだんと疎遠になってしまった。
追記 中学2年の時買った昔の丹沢のガイドブックが出てきたので見たら、結構面白いことが書いてあったので記しておく。
・丹沢湖、宮ヶ瀬湖はまだ影も形もない。
・表尾根にはヤビツ峠に4軒、三ノ塔、烏尾、新大日(2軒)、木の又大日、塔ノ岳(2軒)それぞれに素泊り可の山小屋があった。食事付の所は少なく、どれもほぼ山麓で料金は450~700円。
・厚木駅から札掛行きのバスがあった。当時は札掛は人の住んでいる集落で小学校などもあったはず。
・2枚目の写真はガイドブックの裏表紙の広告だが高校の時買ったキャラバンデラックスという靴。写真の通り底にやたらに鋲がついている。草付や苔のついた岩などには強かった。すぐに絶版になったような気がする。以前ネット検索でも出てこなかった。
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