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まず添付の写真の通り、ヤマレコの地図の馬場平最高点の写真は大ブナですのでこれは間違いです。
私の写真のこんもり盛り上がっている場所が最高点です。
なぜかと言うと、私が尾根を詰めて登り切った正面が一番高く見え、そこに向かって歩いていたこと。
これは違うと踵を返して大ブナに向かったからです。大ブナへは確かに緩やかに降りており歩行が楽でしたので約5m位低いです。
ここで私が愛鷹山に登り始めた頃に長泉町の長老からの話として聞いた話をします。
明治時代に馬場平は高い木が少なく、背丈の高いササで覆われていて登山道を歩くと腰まで埋もれてしまっていたそうです。
そこでふもとの農家の人々は袴の腰まで笹に埋もれる事からこの山を袴腰岳と呼んでいたそうです。
ところが誰かが須津への分岐点に袴腰岳須津分岐と書いた看板を置き、須津分岐の字の部分が朽ち落ちて今の袴腰岳の場所が袴腰岳と言われるようになったのだそうです。
約十数年前にネットで調べると同じようなブログもあり、出所は同じかも知れないが面白い話だと思っていました。
次にこの場所が馬場平となぜ名付けらているのかですが、馬場とは馬が多数いて馬小屋などがあった場所です。
麓には馬場、競馬場跡と言われるところが複数残っています。
沼津市に古くから住んでいた地元の方に今から20年前に聞いた話では、少年時代に愛鷹広域公園付近で野生の馬が群れていたのを見たという話を聞いていました。今から100年くらい前になりますかね。
ただ馬場平に馬がいて、馬小屋があったという話は聞いたことがありません。
ところが江戸時代、寛政9年(1797年)から明治4年(1871年)の間、愛鷹山には幕府直営の愛鷹牧がありました。
幕府の保護により愛鷹山には2千頭を超える放牧馬がいたのです。さらにそれより前、奈良時代からも岡野牧など愛鷹山南面は多くの馬がいました。
愛鷹山に馬が2千頭以上いたというのは今では信じ難い事ですが、幕府の記録は正確に残っています。
馬は群れをなしますので馬場平に多く囲われていたというのは納得ができます。そしてその南面には複数の沢があり登山道に出ることができます。
現在の最高点は私は小屋跡か馬の墓跡ではないかと思います。そして馬場平には江戸時代末期、多くの馬達が集っていたのだと思います。
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