最近では私は、山居遺跡の寺院的外観とその場所から鎌倉殿の13人で話題となっている阿野全成の嫡子、阿野時元の籠城の砦説を唱えている。
その根拠は吾妻鏡の記述 健保七年二月十五日の記述に(引率多勢構城郭於深山)とあり、これが裾野市須山の深山城と思っていたが、阿野時元の居城大泉寺からみて深山とは、背後の愛鷹山南面にあるとみるのが自然で、その場所は山居遺跡しかないと考えているからである。
つまり、北条軍が根方街道を一気に進軍すれば嫡男時元らはひとたまりもない、院の後鳥羽上皇と密約があり籠城して時間稼ぎをしていれば朝廷軍が時元を担ぎ上げて新幕府を設立するというシナリオである。
公暁が実朝を暗殺したのも院の陰謀であり、承久の乱は2年早まるはずだったというわけである。
山居遺跡付近は根方街道を見下ろす位置にあり、付近には鐘撞堂もある。早くから阿野一族はここに寺院を模した砦を築いていたのではないだろうか。
朝廷の蜂起はなんらかの事情で遅れ、時元は山中を逃走し ついに長泉町の五輪塔で自決するに至った。先日の山行前には五輪塔の隣には5個くらいの墓石がかつてあったという証言を得ている。家来の殉死を意味する。
山居から五輪塔は現在でも通ることができる獣道が残っているし、無理のない推測と思う。
その後、鎌倉末期の1313年に山居には夢想国師による大中寺の元となる山寺が作られ、江戸期には愛鷹牧の牧場、その後愛鷹牧畜会社、金岡奨学会学林の作業場、炭焼荷場、畑地、ハイキングコースと変遷を重ねたと思う。
現在、高橋川のかつての牛乳の荷場付近には平成13年に建てられた大中寺碑があるが、現在の東沢田の大中寺の山居を模した庭園跡はまさしく山居そのものである。
詳しくはホームページの特集をみてほしい。
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