|
![]() |
![]() |
今から20年前に開催された沼津市立明治史料館の企画展「愛鷹山中の謎の遺跡 山居院ー史実が伝説となるとき…」の解説書の内容は大変優れたもので、都合10回以上の訪問も加えてこの場所の石積み群は、その基礎部分において江戸幕府によって弾圧をうけた日蓮宗一派、三鳥派の大寺院跡で間違いないと思った。
その理由は1984年から活動をはじめたオウム真理教に例えると、このオウム真理教は新興宗教の1つとして当初は若い人が自主的に入信していた時期がある。世間的にも「そういう面白い宗教があるね」という程度で認知されていた時期がある。
一方、時の日蓮宗大石寺は強大な権力で江戸幕府と繋がっていた。
織田信長が延暦寺を焼き討ちにした例もあり、江戸幕府はその力を利用しつつも同時に権力の抑制に尽くしたに違いない。
そのような政治的忖度が行われている中で三鳥院日秀の布教は斬新で若い僧侶を惹きつけていたのだろう。
ところがキリシタンや新派に対する幕府の危機感から弾圧がエスカレートする中で、日秀やその信者も入信者勧誘に走り、物を与えたり派手なお経などで信者を増やしていき、ついには山中に巨大な大寺院を建て勧誘した信者を威圧して引き留めなければならなかった。
オウム真理教の上九一色村の巨大なサティアンの仏像と同じである。
とすると、オウム事件で子供が入信して帰ってこないとかの事例と同じように、山寺に行ったまま子供が帰ってこない、などの苦情が出てきたのであろう。
ついに幕府の弾圧を受けるに至った。
問題はこの後である。なぜこの山居にある山鳥派寺院が歴史上の記憶から消されたのであろうか?
それは簡単である。オウム真理教の富士山総本部(富士宮市)、山梨県上九一色村のサティアン群の跡地に現在(オウム事件跡地)という説明看板が立てられているであろうか?
最近では若い人たちはオウム事件の事も知らない人がいる。ネットなど情報社会の中でもたった二十数年前の事件が忘れ去られようとしているのである。ましてや三鳥派弾圧事件はなんと300年以上前の話なのである。
さらに本日気づいたのだが、山居牧場跡地で私が冗談で「なんで江原素六は石積みの中に素六牧場と刻まないんだろう?」と言ったのだが、確か江原素六は日記で(山居、山居登山、午後から山居)くらいしか書いていないのだ。
ここに(山居登山、石積みあり昔の大寺院の跡なり)と書いてくれればそこにかつて大寺院があったことが証明される。なぜ書かないのか?
これも簡単だ、江原素六は旧幕臣である。時代は違えど幕府の弾圧事件でこの石積みが廃寺の跡であることはわかっていたはずだ。
そこに立った素六は弾圧を受けた三鳥派の怨念に恐怖を感じたことであろう。素六はその幕府の弾圧を消し去るため、この石積みの基礎を補強して牧場を建てるよう指示したに違いない。
上九一色村のガリバー王国とある意味似ている。
私は本日、山居遺跡の5段目にある突端に登ろうとして見ていて、それが信者がかつてそこに待機して侵入者を見張っていた見張り台のように見えた。そこに登れば一直線で寺院の門から約4キロ程度先まで見通せるのだ。(現在は植林で見通せない)
これはオウム事件で警視庁の捜査を警戒して信者が警察無線を傍受して防衛していたのと似ている。
当時は鐘を鳴らして他の高山等にある鐘と連動して連打していたのだろう。その響きは柳澤の集落に響き渡り、取り締まりの、そしてこの三鳥派終焉の切迫感に包まれたことであろう。三鳥派も最初は村人の幸せを願う純粋な新派だったから。
私たちが今、山居遺跡でこの石積みはなんだろう?と首をかしげている姿は、上九一色村のガリバー王国で事件を知らない若者が「この土台はなんだろう?大寺院の跡かな?」と言っている姿と同じだ。
愛鷹山山中にある謎の遺跡の上には、かつて煌びやかな巨大寺院の仏舎利塔などがそびえたっていたに違いない。
妄想か?
人間社会は都合の悪い事は記憶から抹消していく集団本能のようなものがある。富士宮駅の長いプラットフォームも今では語り継ぐ人は少なくなっている…
コメントを編集
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する