物流に関してはその分、水運が重要であったわけでもありますが。古い岬の港湾や、琵琶湖沿岸の港湾、河港、川下りなど。水路が利かない関ヶ原越え区間のみやたら多い宿駅の数などが名残です。
米原〜大垣さえ陸送すれば、上方、濃尾、若狭湾で三方の海は繋がる。北は小浜〜近江今津、もしくは敦賀〜近江塩津でしょうか?鯖街道での荷が軽い場合だと思います。明治なると同時に鉄道が真っ先に牽かれたのが、これら陸送区間だったのがそれらの事情を物語ると思います。
鉄道網はともかくとして、現代、著しく発達した自動車による舗装道路網により、徒歩による移動はかつてよりむしろ条件は厳しくなっております。一方で汽車やバスなどでビバークしやすくなっているメリットもなくはない。そんな状況下と思います。
街道歩きは山行に比べて一般的に楽だと思われるかも知れませんし、また魅力も見出しにくいと思われているかもしれません。
しかし、街道歩きは実際には厳しいところもなくはありません。今も人が住む里であるゆえに舗装されており、歩く分には却って脚 特に膝、足裏、足の付け根などへのダメージが出やすいこと。
地道も廃道中の廃道ゆえに道迷いのリスクや藪漕ぎは一般登山道より却って厳しい可能性があることが挙げられます。
山行は歩くことが前提の道ゆえ、却って楽な面もあるということです。
一方で魅力は簡単にタイムスリップできるということ、古の人の追体験をできることだと思います。舗装はされても、街並はかつてままであり、むしろ旧街道筋の人々はそのことを誇りにかつての建築様式を踏襲するように改築しているということです。
街並みは残っているのではなく残しているものということ。
今日、田舎に行かないとそんな場所はないと思われるかもしれませんが、完全にままではなくとも名残なら結構都会でもあります。拡幅された道なら、片側は昔の屋敷が並んでいるだとか、志村坂上など、一里塚が対で現存しているだとか。幹線道から集落に外れて戻ってくるような道はそちらこそが元来の街道筋だとか。
意外と身近に残っているものです。
人口が多く、鉄道駅に近いところではそのまま商店街になっているところも多くあります。
そして、歩いて辿り着いた街と、電車や車でただ行ったのとでは感じ方が必ずや代わります。実家がある中山道桶川宿はかつて賑わい、また、東京〜群馬の区間の中では本陣や旅籠など、かなり昔が残っている事実に気づかされました。
私が街道にはまったきっかけは近所の東海道箱根越えを達成し、なんとかやれる気になって、ならばと東海道を東に日本橋に行き、そのまま貫いて中山道を下ると実家に帰りました。これをやってみると共に東海道を反対に熱田、京都とやってみて、結果、東海道・中山道・参宮街道・熊野古道伊勢路・中辺路・紀伊路・西国巡礼道・旧東海道たる矢倉沢往還とやって約2000kmはやったでしょうか。冬が来て雪山登山だけは避けたく思う中、改めて考えると、両親の祖先の縁の地である福岡県の旧筑紫国 博多、太宰府、久留米、羽犬塚など。どういうわけか古来からの幹線道路にこれら縁の地が並ぶことに気づき、ならば歩いて繋げてみよう、山の雪解けまで座して待つこともあるまいとひたすら旧山陽道を西に歩いています。以前自宅から姫路あたりまではきていたので、年末に姫路〜広島をやりました。広島〜博多はまだまだ途方もなく遠いだろうと思います。自宅から遠いので連休でしか来れないのが厳しいところですが2月、3月で九州本土に上陸し、GWあたりにはなんとか行き着きたいと思います。
それを行うことにどんな意味があるのかはわからないし、自己満足でしかないのでしょうがやってみた先に意味が見出せるのかもしれないと思います。
写真は姫路〜広島。この先には何が待つのだろう…。
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