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真田丸顕彰碑(さなだまるけんしょうひ) / さなだやまあとち

最終更新:なっしー
基本情報
場所 北緯34度40分21秒, 東経135度31分36秒
カシミール3D
真田幸村が大阪冬の陣の際に大阪城の南方に出城を築いた跡地。冬の陣の講和条件で破却された。現在は明星学園のグラウンドになっている一帯がその跡地。

山の解説 - [出典:Wikipedia]

真田丸(さなだまる)は、1614年(慶長19年)の大坂の陣(冬の陣)において、豊臣方の真田信繁(幸村)が大坂城()平野口の南に構築した出城・曲輪(出丸)である。
豊臣秀吉が築いた大坂城は上町台地の北端に位置し、三方を猫間川・平野川・大和川・淀川・東横堀川などに守られていたが、真田丸の築かれた地続きとなる南方だけは空堀のみであった。そのため、防御が手薄で大坂城の脆弱部であると思われているが、千田嘉博は「大坂城の最弱部は、上町台地の中央部、真田丸の西のあたりであり、ここは地形の高低差が少なく、惣堀の幅も狭い。信繁は、真田丸という突出部を築くことで、真田丸に敵の注意を引きつけ、大坂城の真の弱点を見逃しやすくした」と述べている。また千田は、真田丸の背後には幅200メートルにもおよぶ深い谷があり、信繁は、真田丸がたとえ落とされたとしても、その谷が大坂城を守りつづけてくれると見越して、この場所に真田丸を築いたと指摘している。この南惣構堀である空堀の東部に設けられた虎口が平野口である。
1614年(慶長19年)、豊臣氏と徳川方との関係が悪化し、大坂方は諸国から浪人衆を集める。幽閉中の高野山から脱出して大坂城に入城した真田信繁は、積極的な出撃を主張するが、大坂方は篭城策を採る。信繁は1600年(慶長5年)に、第二次上田合戦において馬出しを利用した戦術を経験しており、信繁は南からの攻勢を想定し、平野口に独立した出城を築き、自らが守備につくことにより徳川方の攻撃を食い止めようとした。12月4日(1615年1月3日)早朝、徳川方の前田利常、井伊直孝、松平忠直らの軍勢が攻勢を開始し、真田丸の戦いが行われる。ここで信繁は徳川方の兵を策によって多く引き込んで破ることに成功した。
冬の陣の終了後、和議の条件により真田丸は破壊された。夏の陣の終了後に造成された小橋寺町を境に、その西側が真田山、東側が宰相山と呼ばれるようになった。江戸期の絵図では、付近に加賀築山や越前築山といった記載も見られる。
なお、1939年(昭和14年)に開園した真田山公園に、真田山町という町名が1965年(昭和40年)に付けられたが、真田丸跡を特定するものではない。真田丸の所在地は、上町台地東端の旧字名「真田山」(現・明星学園付近)に存在したのではないかと推定されている。
2016年(平成28年)には、2月に明星学園テニスコートの外側に真田丸顕彰碑が建てられたほか、7月には島根県松江市で実態を示す新たな絵図の発見が、12月には初の学術発掘調査により遺構と推測される盛り土の発見がなされた。

File:Sanadamaru, sekihi.jpg|真田丸顕彰碑

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