記録ID: 5542936
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ハイキング
奥多摩・高尾
赤鞍ヶ岳・秋山二十六夜山 〜新緑に染まる山歩き〜
2023年05月27日(土) [日帰り]


体力度
3
日帰りが可能
- GPS
- 06:43
- 距離
- 12.4km
- 登り
- 1,028m
- 下り
- 1,043m
コースタイム
天候 | 晴 |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2023年05月の天気図 |
アクセス |
利用交通機関:
自家用車
|
コース状況/ 危険箇所等 |
無生野のタンノ入沢の林道から尾根直登コースは、雨天時などは勧められません。 |
写真
撮影機器:
感想
秋山の二十六夜山は、展望は期待できないので、新緑の美しい季節を選んで登ってきた。
そうはいっても、せっかくの機会である。棚ノ入(サンショウ平)から道志の赤鞍ヶ岳(朝日山)まで足をのばし、都留の二十六夜山からの赤線を秋山の二十六夜山に、そして中央本線沿線までつなげることができた。
月待行事は、13夜、15夜、19夜、21夜、22夜、23夜など色々あるが、二十六夜もその一つである。それが、山の名前に付けられているのは、珍しい。
今回、二十六夜塔のある場所にたたずんでみて感じたことだが、地形的に東方向が大きく開けていて、薪や木炭生産のため常に人の手が入った江戸や明治の時代であれば、飲食しながら月の出を待ち、月を拝むことも可能でなかったかと思った。
それにしても静かな山域だ。土曜日だというのに一人の登山者にあっただけだった。新緑に身も心も染められて、静かな山歩きを楽しんだ。
(参考)
「今倉山・二十六夜山 〜富士と月待の秋の山〜」2022.10.27
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-4840312.html
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コメント
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以下を確認すると、むしろ月を待ちながらの飲食に目的があったのではないかとも勘繰ってしまいます。いずれにしろ月の出る前に登って、明るくない中の月明かりを逆に楽しんだのでしょうか?
江戸時代には、旧暦の1月と7月の26日の夜に、月の出るのを待って拝む行事を二十六夜待といいました。この日の夜半すぎに出る月は、出る間際の光が三つに分かれ、瞬時にまた一つになるように見え、その光の中に阿弥陀・観音・勢至(せいし)の三尊の姿が見えるといわれ、これを拝むと幸運が得られるという信仰が古くからありました。1月は寒いので、7月の二十六夜待が、江戸を中心に盛んに行われました。
https://www.kabuki-za.co.jp/syoku/2/no89.html#:~:text=%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AB%E3%81%AF%E3%80%81%E6%97%A7%E6%9A%A6,%E3%81%8C%E5%8F%A4%E3%81%8F%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%82%E3%82%8A%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82
コメントありがとうございます。
むかしは、生活のリズムを刻んだのは、暦も時も月が中心でした。
十六夜月(いざよいづき)、立待月(たちまちづき)、居待月(いまちづき)、寝待月(ねまちづき)、更待月(ふけまちづき)、下弦の月(かげんのつき)、有明月(ありあけのつき)と名前がついているように、日が暮れると月の出が大きな暮らしのリズムを刻むものだったのでしょう。
つまり、昔の人は様々な思いを持って月の出を待ったのだと思います。それが地域の人たちの集まりという習俗ともなれば、共同の願いをかなえる宗教的な意味合いが付加されたのでないかと推察します。
おっしゃる様に、江戸の人は二十六夜の月の光に「阿弥陀・観音・勢至(せいし)の三尊」の姿を見たのだと思います。一方で、二十六夜の月の本地仏は、愛染明王であることから、織物に関係する地域で二十六夜の月待行事が盛んであったという理解の仕方もあるようです。
確かに、都留も秋山も二十六夜山がある里の村々の江戸時代の暮らしは、「わずかな平坦地を利用した米麦栽培や畑作のほか、煙草など商品作物の栽培や養蚕、郡内織の生産など」に拠っていたようです。
明治は遠くなりにけり。山頂に二十六夜塔を建立した人たちが、月の出を待ち、月を眺めながら、共飲・共食と語らいの中でどのようなことを願い、祈ったのか、その記憶と記録が失われてしまったのは誠に残念な気がします。
せめて、この山名を持つ山に登る者だけは、それぞれの感性をもって少しでも古の人々の思いを共感することを願いたいですね。
いずれにしても、もう少し調べてみたいと考えています。
だんだん気持ちが整理されてきました。以下が気になったのだと思います。
【山頂に二十六夜塔を建立した人たちが、月の出を待ち、月を眺めながら、共飲・共食と語らいの中でどのようなことを願い、祈ったのか、】については、【山頂に二十六夜塔を建立した人たちが、月の出を待ちながら共飲・共食と語らいを楽しみ、最後に現れる月をどのような気持ちで眺めたのか】が正確だと感じていたところです。
最近はビデオ録画した情報を2倍速で見る時代かと聞いています。人間がその時代環境に合わせて生活環境を変えてきたことに興味を持ち始めています。
いろいろと考えさせてもらえて、ありがとうございました。
再びコメントありがとうございました。
ご指摘の点ですが、秋山や都留の二十三夜山での月待が、どのように行われたか、記録や記憶が失われた現在では、その実相を想像するのはなかなかむつかしいものがありますね。
六日町の広報誌に、二十三夜の月待についてですが、次のような記載がありました。
「「二十三夜講」では、どんなことが行われていたのでしょうか。二十三日の夜は、月が出るのが午前0時ごろと遅く、講の行われる家に灯明やごちそう、手仕事の道具(麻績)を持参して集まり、手仕事や雑談、お茶を飲んだりしながら月が出るのを待ち、月が東の空に昇ると灯明を供え祈り、解散となるのだそうです。
盛んに行われるようになったのは江戸時代の後期で、最初は女性だけが、やがて男性も行うようになり、やがて共同で行い、明治時代にはほとんどみられなくなったといいます。この月待ち信仰のあかしとして建立された石塔が「二十三夜塔」となります。」
(https://www.city.minamiuonuma.niigata.jp/fs/1/4/3/8/7/5/_/0501-17.pdf)
これもあくまで一例にすぎませんが、月に対する信仰というのは、程度の差こそあれベースにあったのではないでしょうか。
なるほど、【月が出るのが午前0時ごろと遅く、講の行われる家に灯明やごちそう、手仕事の道具(麻績)を持参して集まり、手仕事や雑談、お茶を飲んだりしながら月が出るのを待ち、月が東の空に昇ると灯明を供え祈り、解散となるのだそうです。】とは、夜なべ仕事に馴染み深かった女性の井戸端会議、今の女子会の雰囲気ですね。制度化すると男性が入ってくるのかもしれません。
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