資料を拝見したので、リンクを記しておきます。
20160429_六甲登山_ゴルフ場下ゲート注意
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-854940.html
このとき写真を撮ってきました、本庄橋跡の説明板の古地図。摂津名所大図絵を参考に作図したとありますが、この絵図の名前は、多分、摂津国名所大絵図なのでしょう。
摂津国名所大絵図
2020.5.22 追記
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/directory/kobemap/htmls/basic/ezu_01.html
以下はリンク切れ
http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/santoshi_1183.html
http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/images/2150993.html
寛延元年、1748 年のものということです。
この地図を見ますと、魚屋道は、本庄橋で住吉川の左岸から右岸へ渡って登っていくようです。
また、六甲山と武庫山と、別々に描かれています。
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その他の資料
摂津名所図会
http://book.geocities.jp/hf2929/86meisyo/8617/sub8617.html
巻之十一(巻之八)武庫郡 菟原郡
http://book.geocities.jp/hf2929/86meisyo/8617/861711/sub8...
10ページ目
または
摂津名所図会
http://bittercup.web.fc2.com
巻之七 武庫郡(むこのこほり)
http://bittercup.web.fc2.com/07muko/muko_kori.html
武庫山
http://bittercup.web.fc2.com/07muko/mukoyama.html
六甲の名前のいわれのところを引用します。
浪速から大阪湾を挟んだ対岸、向こうの地だから、むこ郡 = 武庫郡、向こうの山だから、むこ山 = 武庫山になったという説と、神功皇后に反逆した仲衰天皇の王子、籠坂王とその五人の家臣を討ち、その首を甲とともに埋めたので六甲山という 2 説が伝わっていて、そのうち、六つの甲だから六甲山という説が、現在まで主に広まっているようです。
以下引用。
「武庫山(むこやま) 武庫郡の西北にあり。東西五里、南北三里に跨る。中に数峯あり、一名六甲山といふ。
山頭に白山権現祠・神功皇后社・観音堂あり。二月初午の日群参す。西の峯に石の小祠あり、土俗石宝殿と呼ぶ。山中に水精を産す。極めて清潔にして、眼鏡に可なり。
諺に日く、当山はむかし仲衰天皇の先后大仲姫の二王子籠坂・忍熊、父帝崩じたもうて後、神功皇后を悪んで兵を発し、三韓より帰陣をここに待ちて屯す。その時、皇后早くこれを暁したまひて、武内宿禰を遣はし、軍計をめぐらし、籠坂王および五人の逆臣を誅して、この峯に埋む。その兜首六頭をもって六甲山と号す。
忍熊王は宇治川に沈め、その骸難波浦に流れ寄るを採って白鳥窟に葬るなり。委しきは前段河辺郡仲山寺輿院の下に見えたり。」
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2020.5.22 追記
新改正摂津国名所旧跡細見大絵図
https://archives.nishi.or.jp/04_entry.php?mkey=14752
tosheeさん、こんばんわ。
六甲山の謂れが神功皇后の時代からのものというのは、
なかなか興味深いです。最近、神武天皇関連巡りをやっていると、
すくなからず神功皇后関連が出てくるので興味を持っていたところです。
六甲山周辺の史跡巡りというのも調べてみたら、
見所がたくさん出てくるかもですね。
興味深い情報をありがとうございました。
こんにちは
弥生時代、先史時代からつい 10 年足らず前の出来事まで、いつもいろんな歴史を発見しながら歩こうと思っています。毎回同じ登山道でも、興味が尽きないですね。
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