日本百名山の短歌　54　槍ヶ岳①

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2020年05月15日 21:52日本百名山の短歌全体に公開

短歌に詠まれた山々（3）
　槍ヶ岳

窪田空穂
　窪田空穂は明治十年六月八日、いまの長野県松本市和田、昔の和田村に生れ、幼い時より安曇野の山々に親しんで育つ。若き日より文学を志し、第一詩歌集『まひる野』で世に出て以来、短歌の世界にあっては大きな山脈となった人物である。その空穂が、大正二年槍ヶ岳、焼岳を登山し、その時の歌四十四首を歌集「鳥聾集」大正五年（応邑に発表した。大正二年と言う年に斎藤茂吉の『赤光』が刊行された年である。空穂が大正四年に出した歌集『濁れる川』では、上高地を詠っていたが、登山の歌はない。実際に槍ヶ岳に登山したのは大正二年の夏、案内人を伴い谷江風と野宿に等しい形で槍沢を詰めて登っている。
日本アルプス登山の草創期のころであり、その作品は、空穂の紀行文集『日本アルプス』とともに山岳文学の古典的な意味をもつものだ。槍ヶ岳の絶頂近いあたりで野宿したときの歌にはその時代の登山の様子を思わせる雰囲気が漂う。

　白樺の枝伐りきたり山案内土に立つれば小屋となりけり　窪田空穂
　このうちに今宵寝るかと思ひ見つ青葉もてかけし山の上の小屋

　その苦労のすえに、『槍ヶ岳の絶頂に立つと、我らは世界の荘厳と、その気息の身に感じられるのに対してただ目を見張り、息を呑むのみであった」

　槍ヶ岳いただき近き峡ひにいて空に消えゆく日の光見つ
　風の共霧（むえ）わきたり槍ヶ岳尾の上の巌い照りやまずも
　槍ヶ岳そのいただきの岩にすがり天の真中に立ちたり我は
　天渡る風によろめき槍ヶ岳そのいただきの巌にすがる
　生物はここに生かさず槍ヶ岳天の真中に聳えたりけれ
　寒きやと我をいたわる友が顔こごえて青し槍ヶ岳はも
　槍ヶ岳そのいただきの雪にさくくれないの百合手触れ難しも

　槍ヶ岳を登山し、そして歌に詠んだ歌人は多くいるが、わけても窪田空穂の歌はその写実性において優れていて、ともに感動をえることができる。ただ山岳の歌は、自分で作歌しても、大変むずかしい。自分の非才によるところが大きいが、先人の歌から学ぶことは多い。この一連の歌に槍ヶ岳の高みと、巌の尖りとを想像してもらうことができよう。とくに二首目の歌は素直に山頂に立てた喜びを表わしていて、私の体験からも天空に立つという実感があった。ただ大正時代の登山を想像すると、現代とは隔絶の感があるように思える。空穂は後、大正十一年にも槍ヶ岳を登山している。その時は今の裏銀座と通称される烏帽子から槍への縦走であった。

　まどろむに此夜明けたり槍ヶ岳西の鎌尾根の一つ岩根に
　白雲の騒ぐが上にあらわれて鎌尾根つづく槍の穂の方に

　大正二年の折のような湧きおこるような感動には少し足りないが、この歌人の影響は山岳短歌に多くの影響をあたえていると思う。

大悟法利雄
大悟法利雄は明治三十一年大分に生れ、大正六年より牧水の門下生にらり作歌をはじめる。『第一歌集』に大正十四年に富士登山をし、昭和七年に「アルプス行」としてＩ〇七首を詠み、昭和八年に「白馬と黒部
渓谷」二十七首がある。この歌集は昭和一六年に出されている。その歌集のなかで槍ヶ岳を詠んだ歌の一部である。

　明近き月かげしんと流れたり見上ぐる尾根に大槍の穂　大悟法利雄
　見渡す限り四方はとざせる雲の海ぞ大槍の穂の朝風に立つ
　わが立てる槍の穂の影は雲の海を越えて抜戸の腰にのびたり
　人声にふと見下せば遥かなる雪渓を登り来る小さき人影

　大悟法利雄は昭和十七年の歌集『翼』にも、戸隠、妙高、八ヶ岳、木曾御嶽などの歌を詠み、発表している。盛んに登山をしていたこのがわかる。
　戦争前の時代の歌に関心をもつのぽ、大正昭和にかけて日本の文化が、明治以前とはまったく異なっているけれど、戦争後半世紀経っても、現代と変らないのではないかと感じさせるからである。詩歌に時代断絶を見ることが少ないからである。

逗子八郎
　新短歌の逗子八郎は職業軍人であったが、山と短歌を愛した歌人。歌集『朝雲』に「槍ヶ岳」十八首がある。逗子は燕岳から表銀座のコースを歩いている。昭和九年の夏と思われる。

　鎌尾根東鎌尾根に踏み跨る槍ヶ岳岩稜の音楽、中空より流れる　逗子八郎
　フォールドに五指かかる　ずつしりと肉体に伝わる大槍岩峰の重み
　いのち生きて　今踏む槍ケ岳の頂きの岩群　誇りというよりはむしろさびしく　　　　
　遠々に能登の国の方に夕日落ち　大槍の穂は岩むら　くろぐろと畳まる
　幾山なみのしたに起き伏す槍ヶ岳　身は夕雲となりその稜線に触れつつ漂はう

　逗子については北アルプスの槍ヶ岳、穂高岳、剣岳を昭和の初期に登っており、短歌史の中でも特異な存在であった。彼の歌からはひたむきな気持ちが伝わってくる。この槍ヶ岳の一連にはうまく情感がでていると思うが、新短歌（自由律口語歌）は表現が理屈に陥る難点があり、詩とも微妙に異なり、短歌として成立させるのにはかなり難しいものだ。特に自然詠は特にそうだ。説明になって詩歌の余韻を残せない場合が多いからだ。新短歌詠えば、歌人の力量、詩性が多分ためされると思う。
歌人としての経歴は不明だが、新短歌と思える歌として

　なんという美しい構図　槍　穂高　台風一過のそらに突き立つ　千田泰三

　『日本山岳短歌集』より

　いやさやに星冴え光りくろぐろと槍の尖りは目の上に見ゆ　深野庫之介
　鍋冠浅川山の肩越しに槍の穂が見ゆ雪の槍の穂　　　尾上篤二郎
　見るが間に雲湧きあがり槍ヶ嶽峰の尖りを立ち蔽いたる　本間楽寛
　没りつ陽の光はひたと定まりて槍の穂先に陰影持たしたり　今井福一
　上層気流澄みとほりたり目の前の槍の穂先はくきやかに見ゆ　　　″
　槍ヶ岳の尾根眼のうへに尖れるに暁月さむく照り残る見ゆ　柴田与志治

いずれの歌も槍ヶ岳の印象的な鋭角な尖りの頂を捉え、情感を押さえながらいい歌だと思う。尾上のような大家でも、その眼にふれた感動を「槍の穂」を繰り返すことで読み手に伝える。今井の歌も柴田の歌も自然の大きな景観の中に槍家田家を捉え負けていない。静けさのなかに情感がある。今井や柴田の歌は、その着眼点が良いと思う。
この他に、私の眼にふれた歌として、斎藤史の歌、直接槍ヶ岳を詠んだものではないが、

山脈を朝夜に見つつ人は老い山をかたれる言あはあはし
山国の山のふかさは顕つ声の吸われてのちに手ごたえもなき
山脈を朝夜に見つつ人は老い山をかたれる言あはあはし　　斎藤史
山国の山のふかさは顕つ声の吸われてのちに手ごたえもなき

来島靖生の歌「歌人の山」より

いただきの巌に立ちてもろ手あぐああ天上を風の過ぎ行く　　来島靖生
槍の穂をとりまくきりのかわらねど文政十一年の夏はとおしも　荒木智江

夏山を統べて槍ヶ岳真青なり　　水原秋桜子
夏雲に槍岳の影映りたり　　　　　山田春生

他にも限りなく槍ヶ岳を詠んだ歌があると思うが、やはり先駆者の久保田空穂の最初の歌は感動が素直で感動も大きい歌が良い。来島靖生が取り上げた俳句の水原の句はやはり言葉に迫力があり、直感的に情景を活写していてすばらしい。秋桜子の句は秀逸。

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