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深田久弥の文
「礼文島から眺めた夕方の利尻岳の美しく烈しい姿を、私は忘れることが出来ない。海一つ距ててそれは立っていた。利尻富士と呼ばれる整った形よりも、むしろ鋭い岩のそそり立つ形で、それは立っていた。岩は落日で黄金石に染められていた。」
これは冒頭の一節だ。とても美しい文章で、なおその特徴を的確に表現している。文才とはこういうものかと感じいってしまう。
「利尻は噴火によって出来た円形の島で、中央にそびえた利尻岳が四周海ぎわまで裾を引いている。従って人の住んでいるのは海ぎわだけで、島を一周するバスが町や村をつないでいる。おもな町は、沓形、鴛泊、鬼脇、仙法志の四つで、どこからも、利尻岳のよく見えることは勿論である。大体富士型の山であるが、仰ぐ方面によって幾らか形が変る。鬼脇と仙法志の中間の一日月沼あたりから見た姿が一番尖鋭で、それはまるで空を剌すような鋭い三角錐である。」
利尻岳の文中に、此の島と利尻岳を簡潔に紹介した一節だ。私が船から見た山頂の姿も槍ヶ岳のように尖って見えた。
私はこの利尻岳には2012年の北海道の百名山連続登山で、8月に登った。旭川近郊の知り合いの家に一泊させてもらい、昼ごろに稚内に着いて、夕刻鷲泊の港に着く船で島に渡った。その日はキャンプ場でテントを張って、翌日3時すぎに山頂を目指した。朝は天気がよかったが、九合目付近から雨になり、山頂では雲に覆われ、強い雨に打たれて、早々に退却した。
写真上は稚内の港を出て現れる利尻であり、下は島に迫っての利尻岳の姿だ。この利尻岳を詠んだ歌人としてか知られているのが、石榑千亦でしょう。
利尻嶺の峰にふもとの靄(もや)すれば雨降るとふをあわれ靄する
利尻嶺の山のひだなる不断の雪夕かたまけて淡くひかれり
北の海二百二十日の前一日さばさばと晴れぬ利尻島山
「山岳短歌集」
やゝやつに沈み沈みて利尻嶺は頂のみぞ海に残れる
利尻嶺の後あかるくかがやきぬ彼方の空の朝はやみかも
島にても見かてにしつる利尻嶺たかく波の秀に見ゆ
石榑千亦(いしくれちまた)経歴
「中学卒業後の明治22年に上京し、帝国水難救済会の創設に参加し、生涯をその発展につとめ、後に常務理事となる。26年、佐佐木信綱の門に入り、31年「心の華」の創刊に参加、以後同誌の編集運営に参加。海洋を歌う歌人として活躍し、大正4年「潮鳴」を刊行。他に「鷗」「海」などの歌集がある。」
石榑の歌を知ったのは昭和一〇年に出版された交蘭社「日本山岳短歌集」という本を御茶ノ水の古本屋で見つけたことに由る。
石榑は船に乗っていたと思っているが、今手元には短歌関係の本がほとんどないのでわからない。一度短歌を離れて、当時持っていた本を全て人に渡してしまったのだ。私は「芸術と自由」という結社に属したことがあり、そこをやめた時に手放した。後半の3首は恐らく歌集「海」の者と思う。
正直、一首目はよくわからない。四首目は浪荒い日の船の上下する様を想像させる。私にしても、もはや大正の頃の言葉遣いは理解できないものがある。五首目の歌は日本海側から朝明けていく時の利尻を詠んだものだろう。恐らく朝の薄明りを背にして黒く海上に尖っている姿を思わせる。
利尻富士さびしらに立てり宗谷野の真黒に焦げしむら山の上に 下村海南
やうやうに遠ざかるなり稚内の船出してみる青陸(あおくが)の山 斉藤茂吉
下村海南(しもむらかいなん)
「明治8年(1875)〜昭和32年(1957)和歌山市生まれ。彩な分野で活躍した官僚、ジャーナリスト
明治8年(1875)、現在の和歌山市に生まれる。本名は宏。和歌山中学校(現:桐蔭高校)を経て、明治31年(1898)、東京帝国大学(現:東京大学)を卒業、逓信省(現:総務省)に入省する。明治35年(1902)欧州に留学し各国の郵便為替貯金制度を研究、帰国後は為替貯金局長として振替貯金制度や簡易生命保険事業の改革に取り組んだ。
大正4年(1915)に台湾総督府民政長官、同8年(1919)には総務長官に就任。台湾教育会の設立や地方自治制度の創始に尽力、また在任中に取り組んだ港湾整備、水力発電の設置、灌漑工事などの事業は、台湾発展の基礎となった。
大正10年(1921)朝日新聞社に入社、経営の近代化に大きな役割を果たし、昭和5年(1930)には副社長を務めた。昭和18年(1943)には日本放送協会(NHK)会長に就任した。
昭和20年(1945)4月、鈴木貫太郎内閣の国務大臣となり、情報局総裁に就任。終戦時のポツダム宣言受諾の玉音放送の実現に尽力した。同年8月15日正午に開始された放送は、日本放送協会の和田信賢放送員によるアナウンスから始まり、続いて下村が昭和天皇自らの勅語朗読である事を説明してから、天皇の声を録音したレコードが放送された。前日には、徹底抗戦を主張する一部軍人により、放送を妨害しようとして下村たちが監禁される事件が起きるなど、緊張した情勢が続く中、天皇から直接終戦を伝える玉音放送が無事に行われたことの意義は大きかった。
佐々木信綱門下の歌人としても知られ、戦後は拓殖大学の総長も務めた。官界、報道界など多彩な分野で能力を発揮した下村海南は、昭和32年(1957)に82歳で亡くなった。潮岬には下村の胸像と歌碑が建立されている。
歌人の中でも可なりの人である。佐々木の門下である意味では石榑と同門ということになる。しかし歌人としての名は知って居たが、あえて略歴をそのまま紹介したのは、その知られざる事柄の多いことに由る。短歌の結社も身分の上下のない社会である。茶人がそうであったように、俳諧にしても短歌結社にしても身分制度を越える仕組みを日本にはあることが面白いし、特異な文化社会と言える。
彼の歌は、北海道から見た利尻であろう。利尻島は、礼文島の南に位置し、稚内の南の位置から見えると思う。
その意味で、「さびしらに」と捉えるのはわかる。宗谷野が焦げると言うのはどういう状況だろうか。夕景に見た光景かな。夕日に染まる平地と、夕日を背にして黒い影となる利尻富士を組み合わせたのかもしれない。
孤高の利尻嶽を詠った歌と思える。
斉藤茂吉の歌は、利尻に渡る船上から詠んだ歌と言えるだろう。二枚目の写真が、まさにその情景ではないかと思いを致15斉藤茂吉については後に、東北の山で触れることにする。
茂吉の歌は自然体で、正岡子規の提唱した詩歌の流れにあると思う。冒頭の「ようように」と言う一言が、これから行くぞ、と言うような気分を持たせる。利尻という山の島に訪れる時、旅人は「ああ、やっと」という思いを抱くだろう。それがこの一語にあると思う。稚内の港を出て左に大きく曲がっていくにつれて、この島を見い出す。山の好きなものにとって最北に位置する憧れの山なのだ。
私は2012年8月にこの山に登った。
長年の夢かなうかなわが船のデッキにいでて利尻岳仰ぐ
一心に晴れる天気を期待して寝袋にもぐるキャンプ場
朝焼けの空を迎えて不安よぎる雲覆いくる長官山付近
九合目雲覆う中雨吹いて灰色の中に利尻山頂を踏む
山頂は雨風強くて堪えられず10分とどまりて来た路戻るしかなし
七合目至れば雲の外にでる島を巡れる光る海がひろがる
残念な思い出となりし利尻岳テントを撤収港へかう。
(地元の人に港まで車に乗せてもらう)
島の人、冬は冬で楽しいよ笑顔でもって送られている
うに丼が三千円とある食堂の看板眺めて船をまちます
いつの日かふたたび来たし青涯の山に向いて手をふっている
さよならと言いつつ見上げる利尻嶽尖れる頂き雲に隠れて
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