かれが執筆にあたり剱岳に佐伯文蔵さんの案内で上ったのが64歳のときと、あとがきに書いてある。この小説を書くにあたり、いろいろの文献や資料漁りをし、人に会われてインタビューしている。小説を書くのも剱岳に登るほどに苦労がいると思った。
自分も45年ぶりに登って、別山尾根のコースの記述を、どの辺りだろうとい思い巡らした。しかし、当時の人たちが未熟な装備で、道なき道を切り開いていったことに驚きを覚える。
現在はスポーツ登山とは言え、商業ベース、また超安全対策が取られるようになり、道も整備されて万人が山を楽しめるようになっている。
日本山岳会の切り開いた道でもある。
私には長次郎の雪渓を登って剱岳の山頂に立ったことがない。若い日に長次郎雪渓から八ツ峰を登り、山頂に登ったことはある。あの雪渓を登ってみたいという衝動に駆られる。
今まで剱岳は経済的に遠い山であった。しかし行ってしまえば何とか成りそうな気分になってきた。別山乗越への登りのつらさを克服できれば、剣沢のテント場でのんびり出来そうだ。
ビデオ撮影してYouTubeに投稿しても、見る人は少ない。なのになぜ映像に撮りたいと思うのかな。
剱岳、別山尾根コース、一服剣までに二つの鎖場があって、えっと思った。
前剣の登り、正面から見ると垂直に見えるが、ガレ場の道は思ったほどでもなく、前剣からの下りと前剣の門への鉄橋から鎖、そこから平蔵の頭の鎖場、このあたりは楽しめる。そして平蔵のコルへ。ここで平蔵のコルへ下る道を見つけていなかった。余裕がなかったかな。カニのたてばえに取り付くところ。
ここは剱岳前衛の岩場とでも言うべきところだろう。この左右に上りと下りの鎖がつけられている。以前はカニのよこばえしかなかったように思うのだが。
昭和16年発行の「日本アルプスの旅」朋文堂に記載されている記事によれば、平蔵のコルには石室があり、そこから先は「純然たる岩場で急な岩稜を攀じ登るのだが、要所要所には針金が取り付けられてあるから注意さへしていれば何でもない」と書かれている。
「帰路は・・平蔵谷を選ぶもよいが、長次郎谷下ることが・・・もっと一般的なコースである」とある。
昭和の人たちの登山とは・・・、
この本の地図を見ると今の剣山荘はないものの、御前小屋、剣沢小屋や真砂沢小屋、池ノ平小屋はすでにあるのだ。さらに「真砂沢には夏季に売店があって少しのことは足りる」と書かれてる。
この本は神田で見つけて大事にしている本だけど、戦前の日本人と今の日本人では人種がちがうのかと思いたくなるほど、凄まじい。戦後われわれは軟弱になったと思える。
老若男女が昨今どこの山でもスポーツとして登れるというのは、いいご時勢になったといえる。なおさら明治時代の剱岳登頂が大変であったかしのばれるというものだ。
ちなみに内蔵助谷の名称は、佐々内蔵助成政に由来する。ザラ峠越えの話が変化したものだという。伝説によれば馬場島(この名も此処で馬を棄てたから)から大窓を越え、今の内蔵助平に出たという。
佐々成政の冬の黒部越え、当時としてはとんでもないことをしてるように思うのだが。
今の登山がレジャー化して、歴史や文学、宗教的なことなどからどんどん離れている。純粋スポーツの登山としては、トレランというのかな、走って登るというヤツ。これ何の意味があるのかなと考える。
これは「ランニング」の延長上のスポーツで、走る対象を平地でなく起伏の多い山に変えただけだろう。そこには人間科学の進歩があって、スポーツとしてのというかランニング登山を可能にしているのだと思う。
今現代の登山は、スポーツ登山ともう一つ伝統的登山とでもいうか、二つの方向があって、山の愉しみ方が多様化している。
スポーツ登山は、若いときにしか出来ない。肉体を駆使しての登山。他方の登山は年齢や好みにあった登山とでもいうかな、くぶんは難しいのだけれど、そのどちらもが、かさなりあって愉しまれているといえるだろう。
ただ時間を競ったり、距離を競うのではなく、山で思索したり、文学的に愉しんだり、そういう側面がもう少し加味されると、登山も奥深いものが見えてくるのではないかと思う。
若い人に求めるのではなく、中高年になって山を始める人たちに、多くそれを求めたいな。「山を語る」ことの出来る渋い中高年の山の愛好者が増えて来るでしょう。


うーん、新田次郎の読書感でも書こうかと思ったが、あらぬ方へ・・・
はじめまして。
なんだか共感しました。
新田次郎氏の山岳小説は色々読みました。
点の記にあたっては何度読んだことか。
槍ヶ岳開山や強力伝、etc...
山に行く前に、その山に関わる歴史を調べたり、小説などを読んでから行くと、ただ歩くのとは違った味の深い物になりますね。
小説のシーンが浮かんで来たり、歴史を感じ先人の苦労をしのんだり。
昨年の裏剱&水平歩道も、「高熱隧道」を読み、仙人ダムや黒部電源開発の歴史を調べてから行きました。
知らなければ、何も感じず、ただ通過するだけの場所が非常に感慨深いものになりました。
立山も、立山信仰や立山曼荼羅を調べたり、芦峅寺の歴史からまでも知ってから行くと、単なる登山ではなく、探求の旅になります。
登山の楽しみ方の一つだと思います。
今後もよろしくお願いします。
最近の山登りのスタイルが、なんとなく気になるんもんですから、爺くさいこと言ってますが、せめて深田久弥のさんの「日本百名山」程度は読んでほしいものです。
ただ登る山から、味わう山に、年齢とともに深化できればとおもうのですよ。
そういう自分も勉強不足では在りますがね。時間と距離だけではいささか、もう若い人には勝てませんので。
ごh共感いただけてうれしいです。
映画の剱点の記を見て同じルートを登る事を決めて昨年長次郎で剱登ってきました…8月中旬を過ぎていたので平蔵の雪渓はほぼ崩壊していて使い物になりませんでした…もちろん?長次郎もクレパスだらけで難儀しましたが一歩一歩映画のシーンを思い出しながら…又は昔の人もここから登った時どんな喜びや恐怖を感じながら登ったのか思いを馳せながら登りつつ…この今、ここにチャレンジ出来ている事に最高の喜びを感じづにはいられませんでした
teteteさん、こんにちは。私はあなた他の年代は巣作りと仕事に追われて、山から離れていたから、ちょうどいい時期にやまから遠のいていたんですよねぇ〜。40半ばから山を復活させて、百名山だけは登ろうとおもったんですよ。そのご妻は高山病になるようで3年間で一緒に上れなくなって、ポチポチと一人で山に思い出したようにはいきましたが、あと北海道の9座を残すだけになりました。今登っているのは妻がね、「何時まで上れるかわからないから、悔いのないようにやったら」との一言で、老体に鞭打って、昔のことと思い合わせて登っています。速度は落ちました。あとは持続力ですね。遅くてもあるき続ける持続力、今それだけを考えています。大きな山に行くと回復力が遅くなって、剣の一週間後に腰周辺が痛がってます。トホホですね。長次郎登りたいですね。今年行き損ねたんですが、やはりこの歳になるとひとりというのは<無謀>の域にはいるのではと思っています。つくづく30〜40代の油の乗り切った時期に歩けなかったのは悔やまれますね。内蔵助谷の途中で中学一年生の息子と長次郎を登ってきたというお父さんに会いました。うれしそうでしたね。たぶんteteteさんもそうなるのではないでしょうか。その時のレコ楽しみにしてます。剣岳・仙人池は青春と妻との大事な思い出の山なのです。アルプスの中でもいつもあこがれている山です。
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