日本百名山の短歌50 薬師岳
薬師岳は私が経験した山の中でもとても大きな山である。どのように大きいかと言うと、深田久弥もその「日本百名山」の中で、三度も書いている。
冒頭に「立山の弥陀ヶ原まで上がってきて、まず目を惹くのは薬師岳だろう。南北に長い山の背を、弥陀ヶ原からは縦に望むことになるので、、山の形が引緊まって、堂々とした貫禄のある山に見える。」
「そのボリュームの大きさを満喫するには、雲の平から望めばいい。ここからはその長大な尾根を、値打ち通り横から眺めることになる。全く呆れるくらい巨大な壁が、眼路の正面を扼(やく)している。
「立山温泉から五色が原を経て、尾根伝いに行った。越中澤山を越えて、薬師の稜線に取りかかってから頂上までが、実に長かった。この膨大な山は行けども行けども、頂上はなおその先にあった。やっと薬師北嶺と呼ばれるもので、本峰までそれから大きな岩のごろごろした長い道のりを行かねばならなかった。」
深田は二度この山頂に立っている。この山の大きさは、深田久弥の表現の如くであり、私は五色ヶ原から登ったので、深田の表現はつくづく同感するものだ。
この薬師の頂を踏んだ歌人は多くはない。まず第一に挙げられるのは、柳瀬留治であろう。彼の歌集「立山」に、昭和9年8月11日〜17日かけて「槍より薬師、立山縦走」とあり、上高地から、殺生小屋(泊)槍ヶ岳、双六、三俣蓮華、黒部五郎(泊)、太郎平、薬師岳、スゴ乗越(泊)、
越中澤、五色ヶ原、一の越、立山(泊)、真砂武、室堂(泊)と言うもので、その健脚ぶりも凄い。黒部五郎の山で、柳瀬の歌を紹介しているが、
そのあとに続くのが、薬師岳の歌である。
薬師嶽に朝日照り初め黒部五郎の暁は詰めたし口すすぐ水
上ノ嶽太郎平の秋草をふみつつむかふ大き薬師嶽に
落ちたぎつ細き水澤を踏み登り鋭き薬師の肩にはひ出でぬ
そぎ立てる薬師ヶ嶽に赤牛がのしかかるにぞ黒部深しも
薬師嶽ゆ見おろす廊下の底にして雪渓破り黒部響ける
薬師嶽みねは鋭く屏風なしてうねりつづけり天のみ中に
薬師佛に剱ささぐと山越えて上り来るらむ飛騨越中人
薬師嶽ひき伸す屋根に日の暮れて烏帽子針ノ木もあわれ夕づく
薬師嶽のこごし巌にとりしてふ岩茸くれぬこの小屋の爺
以上薬師嶽一連の歌9首です。
同じく柳瀬留治が昭和十五年八月七日〜十日をかけて、「立山より薬師岳」を歩いて、歌を詠んでいる。
冒頭の、
山霧のひびきとよめる底にして称名ヶ瀧白久見えくる
というこの歌は作曲されて富山県の愛唱歌になっている。
彼は室堂から、立山頂上に昇り、雄山山頂小屋(泊)、ザラ峠、五色ヶ原、越中澤岳、スゴ乗越、薬師岳、太郎平小屋(泊)有峰へと降りている。
それにしても、雄山から太郎平まで一日はありえない健脚だ。私は室堂から同じコースを歩いたが、雄山によらず、五色小屋泊で、翌日、薬師の肩の小屋へヘロヘロになって着いただった。
(スゴ乗越をすぎて)
薬師ヶ岳やまふところの浸出水たのむ小屋ゐの爺を侘しむ
ふきつくる雨をはぢきて冷え冷ゆる薬師岩稜ただ這うわれは
薬師嶽吹き幕雨に濡れ濡れて五體のわななき死の際にゐし
もう駄目ぞとがたふるふわれにしっかりせよ死ぬなと友はどもりつつ泣く
濡れぬれて生けるともなく薬師澤のおち激(たぎ)つ瀬に転び入りぬわれ
ぬれぬれて薬師より下り太郎兵衛平雨じゃぶじゃの草原たどる
個やこぞり火よ熱茶よとなすままにまかせて気遠(きとほ)にしあり
これ遭難寸前の歌です。まあ。私の体験も似たようなものでした。
有峰に下る途中で
昨日かもをとつに(一昨日)かもなずみける地下足袋あとの残る谷崩(たにくえ)
当時、地下足袋で上っていたんですよね。
薬師岳の歌、柳瀬の歌は戦前の登山であった。
戦後、昭和三十一年に、立山に登った歌人松村英一の歌がある。
「立山」昭和三十一年八月十日、立山、剱岳に登らむと出で立つ。
霧の幕厚き薬師岳を今日はみずわれの近づく追分の小屋
薬師岳の大きゆたかさ肩ならべ鷲岳鳶山あわれ小さき
前田夕暮「鷲」
薬師岳は朝日のさせる山腹に雪の斑点(まだら)の大きく粗き
母衣崎健吾
延々と伸びるトレイル手繰りよせアルプの盟主薬師岳いま
窪田空穂の歌を見つけた。昭和21年の歌集「茜雲」
烏帽子岳の一夜(全集735-6)
夜となるにいよいよ厳(いか)しく薬師岳見むとわがせぬ目を逸(そ)らさせぬ
*わがせぬ目を逸(そ)らさせぬ
→「わがせぬ目」がわかりずらいが、薬師岳の姿をゆううぐれに目を凝らして見るという意味だろう。
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