山で宿泊することについて。
我々登山愛好家の大先輩であり、あまたの山岳紀行文を世に著わしている田部重治はこう云っている。「登山の感興を十分に享楽するということには絶頂を究めて返るということに付け加えて、森林もしくは渓谷に野宿を試みるということを含んでいなければならない(中略)野宿を伴わない登山は趣味に乏しい。登山だけで野宿をしない間は、まだ登山の真味を解することはできない。」と。彼が山に身を委ねた明治後期〜昭和初期と比較して山小屋の充実やテント等の宿泊道具の軽量化が成された現在の感覚ではいささか大袈裟な印象もなくはないが、確かに登山〜山を旅する心情〜を深くえぐった名言であると思う。
日帰りの登山では見ることのできない世界を山中に宿泊することによって求めることができる。それは例えば・・・・・山々をほんのり赤に染める夕陽、それををみつめながらささやかな晩飯をこしらえ、渓に残った雪渓でウィスキーを割り、暖かいスリーピングバックにくるまりぬくぬくと眠る。そして深夜、ふと目を覚ましてテントから顔を出せば満点の星空。翌朝にはお待ちかねのご来光の光景だ。この自然の大スペクタルを体感するには山中に一夜を過ごすしか方法はない。
もちろんすべて天候に恵まれ、運がよければの話ではあるが、テントという自然と布きれ一枚隔てた「家」に包まれてこそなせる技。それはタープであろうとツェルトであろうと同じこと。そして自然における「家」で過ごすプチ・プリミティブな経験は一度知ってしまえばヤミツキになること請け合いだ。
自然は決してやさしくはない。が、セオリーさえ守れば想像しているよりは厳しくもない。ヤバいと思ったら安全なところまで避難すればいいのだ。運よくそのリスクをかいくぐり、山に抱かれ、自然に心を開放して一瞬かもしれないけど自然の本当の姿が見れたなら。。。それは神々しいほどの何かを感じるはずだ。そして自然の本質の中で、ほんの少しでも自分も自然の一部なんだな、と感じることができれば超ラッキー。なのだ。
この経験の積み重ねが僕が山中で宿泊する最大の大義である。
山でテントを張って一夜を過ごすと、
大自然に抱かれたちっぽけな自分を
再認識し太陽の有り難さが分かります。
北海道の冬山ではテント泊したことが
有りませんが、本州に比べて寒そうですね、
年取ると寒さが骨身にしみます。
yuhokaiさんの山泊レポ楽しみにしています。
lukepapaさん。どうもこんばんは。
「大自然に抱かれたちっぽけな自分」に共感します。
人間は自然の中では最もひ弱な存在かもしれません。
だって夜のトラツグミの鳴き声にさえ怯えるのですから
それは少しづつ知識を付けてたくましくなるしかありませんよねー。
寒さが骨身に沁みるのは僕も同じです
いいですねー。
やっぱりyuhokaiさんと言えば野宿ですよね。
ご一緒していると、この文章のような雰囲気は全く感じないのですが、それはきっと深く秘めた思いなのでしょう
が、田部氏の「ねばならない」文体は苦手かも
個人的には、安全に関することについては「ねばならない」は受け入れられますが、それ以外の楽しみ方は人それぞれ千差万別だと思うんですよ〜( • ̀ω•́ )✧
うん、僕的にはテン泊山行が理想的、くらいの感覚ですかね。毎回テン泊は無理ですから〜。実際は色んなバリエーションを交えながら、ってとこでしょうか?楽しみ方は千差万別、その通り!だと思います。山に来てまで人の考えを押し付けられたくはないですもんね。
田部重治の「ねばならない」については意図的に文中に使ったとも思えます。日本山岳界の黎明期においては日本アルプス絶対主義というか、それ以外は見向きもされないといった感じで、競うようにして未踏峰の山へ、それが無くなればより難ルートへとの変遷を辿っています。そんな中、田部は奥秩父というマイナーな山と渓谷に目を向け、登山と野宿をパラレルに語ることで登頂至上主義へのアンチテーゼとした、と僕は考えている訳ですよ。
最終的には好き、嫌いの世界になってしまいますが、パイオニアとしての田部重治の存在は日本の山岳界に大きな影響を与えたと思います。まぁ、毛嫌いしないでちょっと目を向けても損はないと思いますよ
なるほどー、そういう文脈の中で語られたものだったんですね!
狭量なのが嫌いと言っておきながら、僕自身が狭いこと言ってますねー(^_^;)
少し読んでみますねー
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