「風雪のビヴァーク」という有名な遺書を残し、
有元克己と共に厳冬期の北鎌尾根で果てた。
昨年11月、ヤマケイ文庫より新編、再刊されたので、購読した。
本書にて記録されている氏の登山歴は、
1938年から1949年までの足掛け12年に過ぎないのだが、
氏が夭折したのは満26歳であり、
逆算すれば、15歳の登山から詳細な記録を残していることになる。
その、氏が15歳当時の登攀記録は、
今ではクライミングを志すひとびとなら誰もが登ろうとする、
滝谷第四尾根に始まる。
クライミング道具も、着衣も現在には遠く及ばない貧弱なものであり、
場合によっては裸足で登ることもザラだった当時、
今ほどコースが開発されていなかったにも関わらず、
弱冠15歳の氏が完登してしまったという事実に、
衝撃を覚えないわけにはいかなかった。
それ以上に衝撃を受けたのは、その素晴らしい文章力である。
先鋭的な登山家は、長谷川恒男しかり、植村直巳しかり、
往々にして優れた文章力を具えているように見受けられるが、
26歳にして夭折しなければ、登山家としてだけでなく、
文学家としても、その名を残したのではないだろうか。
本書は、戦前〜戦争直後の日本の登山史だけでなく、
文化や風俗を紐解く資料としても、貴重な存在だと思う。
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さて、前置きが長くなったが、氏の最後の山行記録をもとに、
拙くはあるけれど、足跡を紐解いてみた。
行程は以下の通りで、現在では完全なクラシックルートとなっている。
湯俣→千天出合→天上沢→P2取り付き→P2→北鎌縦走→大槍→大キレット→
奥穂→西穂→焼→中の湯
有元と合流したのは、1948年12月28日で、翌日は休養、12月30日から入山した。
先行した松濤が、P2、P5付近に荷揚げしてある。
ビヴァークポイントは「BP」と略す。
12月30日(天候不明)
湯俣→P2取り付き→P4手前の小ピークとのコル・BP1(テント)
12月31日(曇)
BP1(有10:15、松10:25)→P6・BP2(松17:15、有17:40)(ツェルト)
BP1で凍りつき、重くなったテントを捨て、
ツェルトと雪洞でビヴァークすることになったが、
気温が高い中で一晩中あられが降って首根っこを押さえつけられ、
大変苦しいビヴァークとなった。
この山行にて、生死を分ける境界線があったとすれば、
これがまず1つ目となろう。
なお、P4手前からP6までこれほど時間がかかっているのは、
予め松濤がP5付近まで荷揚げしておいたものを運ぶのに、
P5とP6を何度も往復しているためである。
1949年1月1日(大風雪)
P6(10:30)→P7(11:30)→北鎌沢右俣コル・BP3(12:30)(雪洞14:30)
クラストした雪面に多量の新雪が積もった状態で、
アイゼンもワカンも効かないという最悪のコンディションの中、
P2からの稜線では比較的易しいとは言え、
大風雪の中をP6から北鎌沢右俣コルまで2時間で消化している。
この夜、ラジウス(携帯用石油コンロのブランド名)が不調になる。
1月2日(大風雪)
BP3で沈殿。進退の岐路に立つ。
夜には晴れ、ラジウスも応急処置でふたたび燃えるようになったため、
登高の決断をする。これが、生死を分ける境界線の2つ目。
1月3日(天候不明)
BP3(有9:10、松9:40)→P8?(13:05)→天狗の腰掛・BP4(15:30)(雪洞17:15)
有元が先に出発しているが、松濤が10:55に追いついている。
前述のように、先行して荷揚げをしていることや、このことから、
登山家としての力量は、松濤のほうが上であることが伺える。
1月4日(大風雪)
BP4(08:15)→独標(11:00)→P15近辺?・BP5(15:30)(雪洞)
原文には「北カマ平ヘノノボリカゝリ」とあるので、
P15の少し先、あるいはP15を千丈沢側から巻いた先付近であると思われるが、
大風雪の中、北鎌沢右俣から独標まで3時間足らず、
そして独標からP15の先まで4時間半というのは、
まさに驚異的なペースという他にない。
(添付画像右を参照。夏でも北鎌沢右俣から独標まで、平均で約3時間かかる)
また、寒気のため、有元が第二度凍傷に罹る。
夜半、雪洞が風雪により破壊され、全身が雪で濡れた。
これが、生死を分ける境界線の3つ目と4つ目。
1月5日(大風雪)
BP5→有元が千丈沢側へスリップ→千丈沢四ノ沢出合BP6(雪洞15:00)
出発時刻は不明。
雪洞から出た途端、全身がバリバリに凍り、
アイゼンバンドも凍って装着不能になったため、
両者ともここでアイゼンを棄てた。
これが、最後にして最大の生死を分ける境界線。
まさに致命的だったと言って良い。
ピックでステップカットしながら登ろうとしたが、
まもなく有元がスリップし、千丈沢側に滑落。
登り直す余力が残っていなかったため、
松濤も下り、ラッセルをして千丈沢との出会いまで達し、そこでビヴァーク。
この際、ラッセルは胸まで。
1月6日(大風雪)
沈殿、記録はこの日限りで尽きる。
千丈沢を下って湯俣まで戻ろうとするも、
もはや力尽き、身動きが取れない状態の有元を捨てるに忍びず、
松濤もその場に留まって共に死ぬことを決した。
実際問題として、大風雪が数日続き(その後、1月8日まで続いた)、
沢に溜まりに溜まった多量の雪をラッセルして、湯俣まで戻ることは
到底不可能だったと思われるが、
この時点で松濤はまだ余力を残していたことは確かだ。
行動記録を書いた手帳は、カメラとともにセロファンで包み、
少し離れた岩陰に置いてあったことからも、松濤の余力が伺える。
これらは、遺体が発見された半年後に、ほぼ無傷で発見された。
また、有元の尻の下には、たくさんの木の小枝が置いてあり、
頭上の木の枝が無数折られていた。
松濤が少しでも有元を暖めようとしたものと思われる。
「今、14.00 仲々死ネナイ 全身フルヘ 有元モHERZソロソロクルシ」
とあることから、松濤、有元共に1月6日夕方ごろに果てたと推察される。
※「HERZ」(ドイツ語)=「HEART」。脈が弱くなったということ表現したか?
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松濤・有元のパーティは、連日の大風雪の中、
北鎌尾根の最終盤である、北鎌平付近まで達していた。
実際、北鎌平を越えれば、大槍への最後の登りを控えるのみ。
ここまでの苦難を乗り越えてきた彼らのこと、
アイゼンさえ装着していれば、訳もなく乗り越えることが出来ただろう。
有元が滑落したとき、松濤はラッセルするほどの余力を残していた。
凍った大槍基部をアイゼンなしで、
ステップカットのみで登ることができたとは到底思えないけれども、
ここまで登ってきた経緯を辿ると、ひょっとしたら・・・、と思わせる。
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余談ではあるが、この出来事と対比として語られる事件が、
1965年8月に起きている。
高田光政と渡部恒明のパーティが、 、
ヨーロッパアルプスのアイガー北壁に取り付いたが、
登頂まで300mのところで、渡部が約50m墜落し、ザイルで宙吊りの状態となった。
降りて救助に行けるような場所ではなかったため、
高田はありったけの予備食と燃料を別のザイルで下ろし、
残り300mの登攀に取り掛かった。
そして登頂後、夜を徹して下山、地元の警察に救助を求めたが、
捜索の末、渡部は北壁基部で凄惨な死体となって発見された。
この一連の出来事は、日本では「仲間を見捨てた」という論調で、
逆にヨーロッパでは「冷静で的確な行動である」という論調で
それぞれ話題となった。
松濤明と高田光政。
どちらが正しく、どちらが間違っていたのかは分からないし、
あるいはどちらとも言えないのかもしれない。
登山において、生と死の境界線を、はっきりと区切ることは、とても難しい。
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ぼくは先の8月、北鎌尾根に入った。
http://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-127769.html
季節は夏だったし、ルートは湯俣ではなく、北鎌沢からではあったけれども、
北鎌尾根に入り、槍→奥穂→西穂となぞり、
偉大な先達が辿ったルートに思いを馳せた。
彼らが、空前の山ブームで賑わう今の北アルプスを見て、
どのように思うかは分からないけれども、
先達が拓いてきた山々に対して、畏敬の念を忘れずに、
今後も登り続けたい。
怪我の経過にもよるけれども、来年の秋に北鎌尾根を再度登る予定だ。
できれば、松濤・有元パーティと同じように、湯俣からP2に取り付いていきたい。
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添付画像左:松濤の手帳にある「遺書」の最後から1つ前の頁
荒川さん
シュラフお返しできず
すみません
有元
我々ガ死ンデ
死ガイハ水ニトケ
ヤガテ海ニ入リ
魚ヲ肥ヤシ
又人ノ身体ヲ作ル
個人ハカリノ姿
グルグルマワル
松ナミ
なお、この手帳は現在、長野県大町市立山岳博物館にて保管されている。
ricalojpです。
良い日記をありがとうございました。
「有元ヲ捨テルニシノビズ、死ヲ決ス」
この正否に答えはないですね。
ricalojpさん、こんばんは。
こちらこそ、いつも拙文をお読みいただき、ありがとうございます。
随分前に、故・山際淳司さんの著書でこのことを知りました。
もし自分が誰かとパートナーを組んだときにこうした状況に陥ったとしたら、
わたしはどのように動くのだろう。
以前、片山右京さんのパーティが富士山で遭難したとき、
片山さんの行動が随分と賛否両論を巻き起こしましたが、
彼の行動も、わたしは間違っていないと思っています。
そして、もちろん松濤さんの行動もしかり・・・。
個人的な経験としては、パートナーが西穂稜線の天狗岳ピーク付近で、
岳沢側に墜落しそうになったことがあります。
http://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-139691.html
パートナーが掴んでいた石が剥がれ、その身体が宙を舞った瞬間、
咄嗟に走馬灯のように脳内を巡ったのは、
「ああ、彼の親御さんに何と言えばよいのだ・・・」でした。
幸い、5mほど下の岩に引っかかり、擦り傷で済んだのですが、
一歩間違えれば確実にアウト、という出来事です。
生と死の境界線の近くに来ると、
そこには髪の毛1本分くらいの差しかなく、
生の中に、常に死が内包されていますね。
本当に、本当に、いくら考えても答えは出ません。
妻とも良く冬山に行くのですが、一つ取り決めがあります。
「夫婦でコンティニュアスは厳禁」
私のコンテの技術で家内が落ちても止められる可能性は2シグマの外でしょうから、二人一緒に落ちるということになるでしょう。
この取り決めは、妻が強く主張したもので、落ちる時は一人で、貴方は道ずれにしないとの愛情表現と思っています。
ricalojpさん
こんばんは。
「夫婦でコンティニュアスは厳禁」
個人的には、このご判断は賢明かと思います。
昨今の傾向として、コンテをするリスクの高さを言われていますし、
特に8000mクラスでは「自分自身が自分のいのちに責任を持つ」という観点から、
コンテをほとんど行わなくなったようです。
しかし、上記の現実的な観点云々より、
おふたりの愛情に基づいての決め事というのは、心を打ちますね・・・
そういうパートナーシップで山をやることが出来たら、
本当に心安らかだろうなぁと思います。
なお、わたしはワンゲル時代には、
多少コンテやスタンディングアックスビレイをやりましたが、
スタカットを要するほどの山はやらなかったのと、
以後は単独に傾倒したこともあって、今では完全に錆び付いた技術です(笑)
来年GWにパーティで穂高へ行く予定なので、ザイルワークをおさらいしないとなあ
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