未明の、ふやけた脳内が発する、戯言のようなものです。
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スタート地点が同じで、ゴール地点も同じだとして、
その間に多種多様な過程があるとする。
大まかに分類するとしたら、
容易な過程があり、難しい過程があり、そこそこの過程がある。
その中から、どの過程を選ぶのか。
うん、スタート地点もゴール地点も同じなら、
一番簡単な過程を選ぶさ。
これももちろんあり。
いや、難しいところを経てゴールするからこそ、価値があるんだ。
だから、おれは一番難しい過程を選ぶ。
これももちろんある。
その選択肢は、ひとの数だけ、過程の数だけ存在するだろう。
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ところで、聞いたところによると、
ひとには「より困難な過程を選択するDNA」なるものが備わっているそうだ。
しかしながら、これは有意識下に備わっていて、自由に出し入れできるというわけではなく、
困難な局面に幾度かぶつかることで、無意識下に潜在しているそれが引き出されるという。
すなわち、困難な局面を避けていると、発動しないという意味だ。
かといって、それがあらゆる局面において発揮されるというわけでもないらしい。
発揮される局面と、そうでない局面があるということだ。
ぼくは、勉強というものがそれほど好きではない。
人生でもっとも真剣に勉強に打ち込んだと言えるのは、
小学6年生の10月から翌年1月までの4ヶ月間、
すなわち中学受験の時期に重なる。
それ以降、いかなる勉強の必要をなす局面においても、
この時期を上回る気迫とモティベーションを抱いたことはない。
かといって、楽に試験を通そうと立ち回ったわけでもない。
すなわち、一番簡単な過程でも、一番難しい過程でもない、
グレーな過程を選んでここまで来た、というわけだ。
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では、山はどうだろう。
ぼくと同年代の、世界に名だたるクライマーは結構いる。
一方、ぼくは名だたることも、名が廃るほどのこともない、市井の人間だ。
だから、ぼくは山という局面で、一番困難な過程を選んだわけではない。
けれど、それぞれの過程の中にも、選択肢がいくつか存在する。
時には簡単なものを選択することもあるし、
それはそうしたくてそうしていることなのだけれど、
最終的には、最難関なものを選ぶことになる。
それが、ぼくにとっての山であるように思う。
山は、父からの影響により始めたものだ。
誰もがそうだとは思わないけれども、
あるいはDNAの次元で、この志向は多少は関係しているのかもしれない。
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先ほど、BSアーカイヴスの特集で、谷川岳が取り上げられていた。
日本国内はおろか、世界の数々の山の中で、
最も多くのひとびとの命を奪っている、魔の山。
(8000m峰14座の合計死者数よりも多い)
その中でも、一ノ倉沢の上部から詰める「滝沢第三スラブ」、
通称「三スラ」は冬期登攀の国内最難所のひとつであり、
そこを登ってやろう、という内容である。
その余韻が冷め遣らず、目が冴えてしまって眠れないから、
こうしてつらつらと書きつくってみた。
谷川岳を、夏道から登頂するのではなく、
あえて三スラから登らんとするクライマーのメンタリティは、
一ノ倉沢にひっきりなしに落下する雪崩の、低くて重苦しい音は、
ぼくの心の中を揺らすのだ。
ぐらり、ぐらり、と。
やはり、やってみたいのだろう、いつか。
できるできないはともかくとして、やってみたいのだろう。
一番難しい過程を。
その特集で三スラを詰めて登頂したクライマーたちは、当時49歳、48歳、39歳。
・・・そしてぼくは今、35歳である。
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