昨年9月末からの約8ヶ月間。
誤解を招く恐れがあることを承知で言うと、
ぼくにとって、人生で最も暇で、最も長く、最も思索が凝縮された期間だった。
潜在的にあった身体的な不安から長らく目を逸らし続けてきた結果、
のっぴきならぬ状況に陥ったことが、この8ヶ月のスタートを切るきっかけだった。
そのきっかけは、他の潜在的な要素を呼び起こした。
人生の道を歩んできた過程で、いろいろなことから目を逸らし、
あるいは放置していた、という自分に気づくこととなったし、
それらが一斉にぼくの精神世界へと覆い被さってきた。
普段であれば、日常世界において、仕事等、雑多な出来事に忙殺されることで、
それらの来襲を抑制、あるいは中和してきたのだと思う。
しかしながら、日常世界から切り離されることを余儀なくされたため、
自ずと精神世界の自分に横たわっていた、
さまざまな事象を深く見つめることとなったのだ。
自室のいつも座っている椅子の上で、
寝室の布団の中で、
あるいは病院のベッドの上で。
この間、ぼくの脳味噌のキャパシティは、しばしばオーヴァーリミットした。
目を逸らし、放置していたさまざまな事象を、
一斉に受け入れられるほど、余裕があるわけではなかったようだ。
結果から言うと、何度も挫けそうになった。
それでも踏みとどまることができたのは、
有形無形でぼくを支えてくれた、周りのひとびとの心、
そして、自分の中にある「確固たる想い」。
この二点に尽きる。
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「山に戻りたい」
昨夏の北アルプスで完全に壊れてしまった自分の両膝にメスが入ってから、
明けても暮れてもこのことを強く念じてきた。
そこには、ただ単に山が好きである、ということ以上の意味が存在した。
20年近くも無視してきた両膝の痛みと、
働いてきた仕事を休職してまで向き合うこととなり、
それと同時に、その他の事象とも向き合うことになったわけだが、
山に戻るためにやらなければならないことを続ける、
それ即ち、挫けそうになる自分を奮い立たせる、最大の特効薬だったからだ。
今年の2月末、試運転状態ながらも、近隣の低山を歩き始めた。
自分の中で「戻りたい自分」の姿にはまだまだ及ばなかったものの、
低山を歩き続けることで、身体的にも、精神的にも、
少しずつフィルタリング・オフされてゆく実感を得られた。
そして、去る5月8日。
「山に戻りたい」と切望していた自分が思い描く「山」を登ったあと、
ひとつの区切りがついたことに気が付いた。
ここに至るまでの2ヶ月半ほど、
ただひたすら「山」に登ることについて思い描き続け、歩き続けてきたけれども、
ひとまず、一旦は腰を下ろしてもよいのではないか、と。
もちろん、近隣の低山歩きは折に触れて続けると思うけれども、
精神世界にどっぷりと入り浸ってきた自分を引っ張り上げ、
日常世界に戻っていかなければならない。
日常世界があってこその、精神世界であり、
日常世界があってこその、「山」なのだ。
日常世界に戻ったあとも、向き合わなければならない事象は、まだまだたくさんある。
しかし、この何ヶ月かの、暇で、長く、思索が凝縮された期間に
目を逸らし、放置してきたこれまでの自分を省みたことで、
以後に同じような轍を踏むことなく、新たな段階に達することができるような気がする。
仕事は、カムバックではなく、リスタートを切るべく、鋭意活動中。
日常世界を変えれば、全てが好転するというわけではないけれども、
歯車の回転に能動的な変化を加えるには、相応しい時期だと考えている。
リスタート後に、また「山」を思い描くことにしよう。
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これからも、挫けそうになることは多々あるかもしれない。
しかしながら、「芯の強さ」というものは、
あらゆる外的衝撃を硬く遮り、受け付けないことではなく、
むしろ迷い、悩みながらも衝撃を受け入れ、吸収することで、
しなやかになり、結果としてより強くなっていくものだと信じていきたい。
何十年か経って、この8か月間が、
自分の人生にとって、大きな糧となったと胸を張って言える日が来るとよい。
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