山とは全く関係のない雑感を云々。
いじめに関することは、非常に繊細な問題を内包しているし、
ひとそれぞれで考え方が異なるだろうけれど、
自分なりに思ったことを述べたいと思う。
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昨今、この手の事故や事件が報道されると、
たらればの方法論ばかり蔓延することが頻々だが、
方法論でいじめが解決するのか。
いじめ問題が、昨今殊にひどくなって云々、という論調も聞かれるが、
これは昔からさほど変わらずに存在するものであって、
単に多くのメディアやひとたちが忘れているだけだ。
子どもに常識的な方法論を当てはめたところで、いじめ問題が解決するはずがない。
何故なら、子どもは我々大人が着想できないところからいじめの種を見つけ、
蒔いてひっそりと芽を育てるからだ。
(例挙すれば、CMソングの些細なフレーズですら、種とする)
いじめている側、加虐側には呵責がない場合が多いのだから、
大人が闇雲に叱責したところで、何故叱責されるのか、
事の重大性などを理解するのは困難だろうし、
それがむしろ、いじめ悪化のトリガーともなりうる。
事故や事件という形に至らなければ、気づかないのだ。
誠に腹立たしいのは、事故や事件になるに及んでも、
「いじめたつもりはなかった」「遊びのつもりだった」
などと言ってのける、加虐側の開き直り、小賢しさの極みである。
いや、よもや年端もいかない中学生にそんな知恵などあるとは思えず、
この子たちの周りにいる大人がそう仕込んだのであろうことは、想像に難くない。
本来、正しき方向に導く責任がある大人たちが、
この子たちの将来のため、などという勘違いした思い遣りによって、
更に誤った方向に導いているのであるとすれば、救いようがない。
死者は決して語らないし、還らない。
しかし、要因に、たとえすべてではなかったとしても、
加虐が含まれていたということを真摯に受け止めなければ、
死者は浮かばれないし、加虐側の将来も救いようがないものとなってしまうだろう。
大人よ・・・。
子どもたちを「守る」ということについて、重大な勘違いをしてはいまいか?
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今でも忘れられないのは、25年以上前に起きた、
担任教諭まで荷担した「葬式ごっこ」の末に自殺した中学生の遺書の一節。
「このままじゃイキジゴクになっちゃうよ」
生きている方がジゴクだ、と自ら命を断ったのだ。
「生きている方がジゴクだ」と思い詰めた者へ、
「自殺してはいけない」と訴えかけるだけでは、説得力を持たせるのが難しい。
受虐側を、そして加虐側をも、正しく導き、守ることについて、
これからも常に考え続けなければならない。
それが、大人の責任のひとつだと思う。
理想論だという批判を頂戴するかもしれないが、
だからと言って、無関心、諦観、日和見では、この国はどこにも向かわない。
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以上、自戒の意味を込めて。
こんばんわ。「いじめ」は、けんかではなく
殺人であり恐喝であり暴行であると思ってます。
今回の大津の一件にしても、過去の「いじめ自殺」にしても結果として自分で命を絶ったとしても、そこまで追い込んだのは、加害者であり学校であり社会で当然
殺人罪だと思います。人一人を死なせておいて、加害者は、生き延びたいと言い訳してることに
憤りを感じざるおえません。方法論は違うのかもしれませんが、「こういうことをすれば、こういう罰がある
」ということを教えるしかないかもしれません。
それにしても結果が想像できない人や事件事故が多い気がします。飲酒して車を運転したら・・・
ブレーキがない自転車を運転したら・・・
無免許で居眠り運転したら・・・
過失ではなくそれなりの罪で罰せられるのが当然だと
思ってます。
miccyanさん
こんばんは。初めまして。
コメントをいただき、ありがとうございます。
「想像力の欠如」と言いますか、
考えればその結末が当たり前に伺えることに対して、
考えられないからそうなるのでしょう。
問題は、事例から何か学ぶことができていない
という点にあると思います。
法律にしても、社会にしてもです。
法整備とその世間への認知は、
瑕疵があっても、早急に行う必要があると思います。
拳を上げるのは簡単だけれども、振り上げた拳をどう納めるか。国家間の関係でも政治家の力量が問われる場面です。家庭内においても、個人個人の社会性が重要だと思います。
小学生の頃、私の周囲でも”いじめ”は確かに存在しましたが、集団を乱すものに対しての制裁の意味合いが大きいものでした。従って、”詫びいれてきたら、終わり”と落とし所もはっきりしていて、それ以後は何事もなかったかのように関係再開です。
また、村八分という言葉がございますが、残り二分の火事と葬式は例外だったと聞きます。やはり、集団を維持するための最低限のところに例外を設けていたわけです。
それらのことを踏まえた上で、近年の(少なくとも私の物心ついて以降)報道などを見ていますと、弱いもの不利のあるものを徹底的に叩き潰す傾向があるように思います。大勢の声の中で違う意見を表明することが大変な覚悟を必要とし、少し知恵の回るものは黙ってしまうという悪循環に陥ってしまう。そんな世相の縮図として現代のいじめがあると感じます。(私らの生まれる前にもそのような時代があったと聞いておりますがよくわかりません)
法整備や監視体制の強化といったシステム整備の話は万人にわかりやすく進めやすいことであると思うのですが、所詮他人任せ、行き着くところは"1984" (George Orwell)の世界でしょう。
子を持つ親として、息子にいじめをさせないようあらゆることを教えている(つもり)だけでなく、
悪意のある言葉を受けても笑いを誘う言葉で返す、いじめのターゲットになるのを回避する能力、いじめの雰囲気そのものを緩和してしまう人間的魅力、といった機知や社会性を持って欲しい、と常々考えています。
もし子どもや家庭を孤立しそうなことがあっても、家庭と地域コミュニティの果たす役割は非常に大きいのではないかと思います。
1955さん
貴重なコメントをありがとうございます。
> 大勢の声の中で違う意見を表明することが大変な覚悟を必要
まったくおっしゃる通りです。
物言えば、唇寒しの雰囲気が蔓延しているし、
マイノリティが何か言えば、
即座に飲み込んでしまうような雰囲気がありますね。
法整備等が必要なことは確かでしょうが、
法は人間が作るものであって、
機械的に作るのではありません。
その法に則る人間そのものが、人間同士のやり取り、
コミュニケイション力によって、
いじめ等を緩和していく作用のようなものがあって初めて、
法が有効な力を発揮すると言えましょうか。
昨今、ネグレクト、虐待などが言われますが、
これも、家庭や地域コミュニティの貧弱化によって、
加虐側の孤立化を招き、事態が悪化する前に
抑止できないという側面も否定できませんね。
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