「この山は正しくは加茂勢山といいますが、標高679メートルの頂上に近づくにつれて足音がポンポンとひびくことから通称ポンポン山と呼ばれています。京都市の西端にあたりますがこのすぐ東の地域は善峯寺・三鈷寺・光明寺などの古刹が多く、平安中期以来、仏教の地としても重要な位置を占めています。東海自然歩道 京都府」
「ポンポン山」という名称が正式に採用されたのは1911年(明治44)発行の地形図から。それ以前には「かもせ山」等、いくつかの名前で呼ばれていました。
・「かもせ山」「鴨背山(鴨瀬山)」「加茂勢カ岳」
・「髢嶽(かもじがだけ)」「髪ケ嶽」
・「神峯寺嶽」「神峰山」
・「出灰山」「譲羽山」
・「高塚山」
また、ポンポン山の山名の由来としては諸説あります。
主な説の内容を『京都の地名検証2』(京都地名研究会編,勉誠出版,2007年)から以下に引用。
○足音ポンポン説
「山頂で靴を踏むとポンと音がしたからという」(日本山岳会『新日本山岳誌』、近畿登山研究会『近畿の登山』、北尾鐐之助『日本山岳巡礼』ほか)
○寺名説
「本山寺(高槻市)は古名、根本寺。このコンポンに由来する」という寺名説(阪急電鉄『歴史ものがたり街道・京都千年王国』)
○山容説
地元では「ポンポン山は加茂勢山のうちでも、一番標高の高い、ポンと突き出た山頂部分だから」(向日市鶏冠井区長)という。
○ポルトガル語説
「ポンポン山」は旧地番が「第壱番ノ壱」である。物の点や先端を「ポント」という。ポルトガル語ponto, pontaが原語だが、近世は「二十両づつ先斗(真っ先)にはられ」(『本朝二十不孝』)とカルタ用語にも使われた。「ポンポン」はポントの畳音転訛も考えられる。
ポンポン山の由来については先にいろいろな方が研究されているので、まずはこちらのリンクを読んでみると面白いと思います。
○Wikipedia>ポンポン山(近畿)*1
「江戸時代頃にはかもせ山と呼ばれていた。(中略)ポンポン山は明治時代になり用いられるようになった呼称」
https://w.wiki/4pqV
○きょうのまなざし>ポンポン山の由来
https://www.kyotocity.net/diary/2014/1012-ponpon_yama-abeno_harukas/
○『京都の地名検証2』(p.283-291/京都地名研究会編,勉誠出版,2007年)
綱本逸雄氏による解説。古文書等から加茂勢(かもせ)は神峰山(かぶさん)からの転訛とする説や、当初ポンポン山は山頂部分のみを指す名称であったことの検証、その他の諸説を解説されています。なお、『京都の地名検証2』のポンポン山の項目は会報誌『新ハイキング関西』の20号、52号、67号(1995〜2002年)の内容を整理拡充したもののようです。会報誌は下記リンクから読むことが可能。
http://hanatabi.sakura.ne.jp/shinhai/
(*1) 投稿日現在、Wikipediaは吉田著『京都の地名を歩く』からいくつかの説を紹介しているような記載がありますが、『京都の地名を歩く』(吉田金彦,京都新聞出版センター,2003年)にはポンポン山の山名に関する記述はありません。一方『京都の地名検証2』(京都地名研究会編,勉誠出版,2007年)のp.283-291(綱本逸雄 筆)に該当の内容が記載されているよう思えることから、Wikipediaは×吉田氏→○綱本氏の誤りの可能性があります。
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◇足音ポンポン説
Wikipediaによると、「山頂付近では必ずしもポンポンという音ではないが、一部では確かに地中に空洞のあるような音がする場所がある。その原因については、山頂近くの石灰岩の切り出し場所が影響している、地下に鍾乳洞があり音が響いている、あるいは山の地層の一部に空洞があるのでは、など諸説ある。」とされています。が、現地で実際にポンポンという音を実感する方は少ないようです。
そこで古文書等から足音ポンポン説に関連する記述を調べてみました。
※以下、国立国会図書館デジタルコレクションのURLの中には本登録&ログインが必要な書籍があります。また、引用については正確性に欠ける箇所があります(特に漢字の旧字体や漢文の書き下し文etc.)。
○山城名跡巡行志(1754年/宝暦4)
『山城名跡巡行志 第五 乙訓郡一』
「本山越 (中略) 此間山路人家無 中路ニ カモセガ嶽トイフ所アリ 此所絶景也 晴天時 渡京都南都之大佛見 又大坂丹後ノユラノ湊マデ見ユ 又釋迦嶽同景色勝ル 亦此嶽足以踏時 大皷如響爲」
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/2989628/1/109
江戸時代の中ごろ『山城名跡巡行志』にカモセガ嶽の記載があり、足で踏むと太鼓のような響きがするとの記述があります。「ポンポン山」という名前はないものの、太鼓の響きというぐらいなので、この頃から「ポンポン山」に類する俗称があった可能性は否定できません。
○京都名所順覧記(1877年/明治10)
『京都名所順覧記 : 改正各区色分町名』
「三鈷寺 當寺の西の方 髪ケ嶽(かもじがだけ)といふ巓(いただき) 平面にして踏鳴せはポンゝと鳴る據て 俗にポンポコ山と云 絶景なり」
https://dl.ndl.go.jp/pid/765640/1/85
明治初期の『京都名所順覧記』では、ポンポン山ではなく「ポンポコ山」との俗称が紹介されています。また、「髪ケ嶽といふ巓(いただき)」という記述からは、山頂付近を指しているとも読み取れます。
○京都府地誌(1881-84年/明治14-17)
『京都府地誌 乙訓郡誌一』
「山城国乙訓郡出灰村 (中略)
旦条山 本村ノ東ニ聳ユ。高サ四十二丈、周回二十四丁余。嶺上ヨリ二分シ、東北ハ石作村ニ属ス。山脈髢岳ニ連リ、雑木蕃茂ス。道路一条、本村東ヨリ右折シ字鬼語条ヨリ登ル。昇リ十丁余、字ポンゝ山ヲ経テ摂津国大沢村ヘ通スル山道アリ。渓水一条流レテ出灰川ニ入ル。」
https://dl.ndl.go.jp/pid/9576749/1/234 (『史料京都の歴史 第15巻(西京区)』)
『京都府地誌』は明治14年〜17年にかけて作成されたもの。旦条山は出灰村の東の小ピーク(かもせ山の支峰?)と思われ、出灰村の鬼語条から「ポンポン山」を経て大沢村へ至る山道が紹介されています。ポンポン山とは別に髢岳(かもせ山)の記載もあることから、ポンポン山は髢岳(かもせ山)の一部(山頂部分)のみを指すという説を補強できるかもしれません。なお、鬼語条から山頂までの山道は明治25年の地形図(仮製図)でも確認できます。
https://lapis.nichibun.ac.jp/chizu/map_detail.php?id=002469419
○鴨背山地上権設定ニ関スル規約(1902年/明治35)
「鴨背山地上権設定ニ関スル規約
今般植林ノ目的ヲ以テ立会、鴨背山ヲ分割シ、地上権設定ニ付、関係部落協議ヲ遂ケ、左ノ反別ヲ分有シ、規約スルコト下条ノ如シ。(中略) 内反別参反九畝弐拾歩 ポン々山共有」
https://dl.ndl.go.jp/pid/9576749/1/244 (『史料京都の歴史 第15巻(西京区)』)
明治35年、鴨背山の権利に関する規約の中にポンポン山の名前が登場。鴨背山のうち一部分を「ポンポン山共有」と設定されています。詳細は『京都の地名検証2』or『新ハイキング関西』の綱本逸雄氏の解説が詳しいです。特に古文書に記載されている面積等から「ポンポン山」が山頂部分のみを指すことを導き出したのは見事だと思いました。→『新ハイキング関西67号』>ポンポン山の正式名称は加茂勢山か?
http://hanatabi.sakura.ne.jp/shinhai/067.htm
○地形図(1911年/明治44)
「ポンポン山」
https://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=34.934523&lng=135.627379&zoom=16&dataset=keihansin&age=0&screen=2&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2
明治42年測図44年発行の地形図でポンポン山の名称が正式に採用されました。想像するに「かもせ山」は周囲一帯の広範囲の山域を総称していたので、特定のピークを指す「ポンポン山」という名称を採用したのかもしれません。(比叡山の場合もピークは大比叡(点名:比叡山)という名称で、ピークとしてのポンポン山(点名:加茂勢山)と似たパターンの可能性も?)。以降、ポンポン山の名称とともに紀行文やガイドブックを通して足音ポンポン説が広まっていったものと思われます。
○『山岳巡礼』(1919年/大正8)
『山岳巡礼』(p.355-356/北尾鐐之助,梅津書店,1919年)
「本山寺といふ寺のある山に上り、そこの寺番人から、始めて、頂上にある岩の邊りの地盤が、地殻の下で洞にでもなつてゐるのか、踏めばぽん々と一種の響音を發するから、ぽん々山の名があるのだといふことを聞いた。」
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/960878/1/187
○『近畿の登山』(1924年/大正13)
『近畿の登山』(p.142-145/近畿登山研究会編,ヤナギ会,1924年)
「此山は山頂の平が空洞になつてゐるためか、足ぶみするとポンポン音がする、それでポンポン山といふらしい。併し此ポンポンは、音すると云へば音するらしいといふ程度の頼りないもので、私はそれよりもポンポン山の眺望を擧げたい。」
https://dl.ndl.go.jp/pid/977619/1/99
○雑誌『民俗学 第2巻第6号』(1930年/昭和5)
「このポン々に就いては、古来よりシコを踏めばポン々と鳴るからと云はれてゐる。(中略) 故老に聞いて見ると、あの山は昔から踏むとポン々と言ふて、地中に甕が埋んであるのだと云ふ話があると云つた。成程さう云へば、萬更音もせぬこともない。而もあの山は附近での最も高山であつて、又攝津と山城と丹波との三國の境をしてゐる。これ等から見て、播磨風土記の記事に類似したものではないかと云ふ疑問が湧いて来る。山頂の型も、如何にも後から土を堆く盛り上げた跡が歴然で、自然に生成したものとは思へない。因に頂上は疊二十疊敷位なものである。(中略) (昭和、五、五、二〇記、藪重孝)」
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1583606/1/32
古老の話によると、地中に甕を埋め込んであるため地上で踏むとポンポンと音が鳴るという伝承があるとこのと。藪重孝氏が考えるに、『播磨国風土記』(奈良時代初期)では丹波と播磨の国境を決めたとき大甕を地中に埋めて国境のしるしとしたとされており、同様に攝津・山城・丹波の堺であるポンポン山の山頂にも甕を埋めたのではないか、という説です。
ちなみに、かもせ山は「高塚山」と呼ばれていたこともあり、「塚」というだけあって地中に何かを埋めたということで符合しているのかもと想像したり。もし仮に、現在でも山頂の足下に甕が埋まっていると想像するとロマンを感じます。
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◇ポンポン山の他の呼称について
1911年(明治44)発行の地形図で「ポンポン山」が正式に発行される以前は、各方面からいくつかの名前で呼ばれていました。以下、参考になるURLや古文書をいくつか紹介します。ただし、山名や方面・時代によって山名の対象となる山域が異なる可能性があることに注意。
○京都府の山(山名リスト)
ポンポン山
「かもせ山(1669年の古文書)。加茂勢カ岳(五畿内志、1735年)。加茂勢山(明治14年の地券)。鴨瀬山(和解書、明治19年)。鴨背山(明治35年の古文書)。加茂背嶽(日本山嶽志、明治39年)。ポンポン山(2万分の1地形図「山崎」、明治42年測図、同44年発行)。加茂勢山(かもぜやま)(点の記)。加茂瀬山・オオハラ(山友会)。オオハラ(今西)(坂井)。なお、「かもせ」は、神峰山(かぶさん)からの転訛と考えられる(綱本逸雄説)。「ポンポン山」は明治35年の各村の規約に初めて見られるが、山頂部分のみを指す呼称である(新ハイキング関西の山、67号、綱本)。(中略) 神峯寺嶽(慶佐次)。神峰山寺(かぶさんじ)の山号である「根本山(コンポン山)」からの転訛説(五来重)については歴史的に裏付けることはできない。」
http://www5f.biglobe.ne.jp/~tsuushin/sub15.html
○きょうのまなざし>ポンポン山の由来
・ポンポン山と加茂勢山の呼称について
・出灰山
・高塚山
・髢嶽(かもじがだけ)と鴨瀬山 三鈷寺
https://www.kyotocity.net/diary/2014/1012-ponpon_yama-abeno_harukas/
◇かもせ山(鴨背山/鴨瀬山、加茂勢カ岳)
主に山城国(京都)方面からの呼称?
○鴫谷山入会論(1669年/寛文9)
「かもせ山」
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/9576749/1/241 (『史料京都の歴史 第15巻(西京区)』)
https://dl.ndl.go.jp/pid/9575986/1/69 (『向日市史 下巻』)
「かもせ山」の名前が登場する最も古い文書。内容は『京都の地名検証2』or『新ハイキング関西』の綱本逸雄氏の解説が詳しいです。→『新ハイキング関西52号』>再び「ポンポン山」について
http://hanatabi.sakura.ne.jp/shinhai/052.htm
また『鴫谷山山論裁許絵図』はこちらから確認可能。絵図では「かもゼ山」と記載されているようにも?
https://jmapps.ne.jp/muko/det.html?referer_id=240&data_id=263
○五畿内志(1735年?/享保20年)
『日本輿地通志畿内部卷第五十三 攝津國之五 島上郡』
「神峰山 原村東北在 山丹二州界爲 拾芥抄 七高山之一称 山中寺有 寺北 加茂勢カ岳有 今山州入」
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1179444/1/95 (『五畿内志 下巻』(日本古典全集刊行会,1930年))
「加茂勢カ岳」の名称。
○鴫谷山の利用をめぐる小塩村民の妨害・暴行行為が訴えられる(1901年/明治34)
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/9576749/1/243 (『史料京都の歴史 第15巻(西京区)』)
「鴨瀬山」の名称。
○点の記(1901年/明治34)
明治34年選定の点の記では「点名 加茂勢山(かもぜやま)」と。
○鴨背山地上権設定ニ関スル規約(1902年/明治35)
https://dl.ndl.go.jp/pid/9576749/1/244 (『史料京都の歴史 第15巻(西京区)』)
「鴨背山」の名称。
◇髢嶽(かもじがだけ)
主に三鈷寺から見て西方の山としての呼称。
これまでかもせ山の別名としてはあまりピックアップされてこなかったようですが、明治初期の地誌では髢嶽=鴨瀬山としているものも多い。
○雍州府志(1686年/貞享3)
「巻一 山川門 乙訓郡
三鈷寺山 同所に在り。」※同書=大原野の西南
「巻五 寺院門 乙訓郡
三鈷寺 善峯寺の上に在り。始め往生院と号す。(中略)其の山、三鈷の形に似るを以って改めて三鈷寺と称す。」
『雍州府志 上:近世京都案内』(黒川道祐,岩波書店,2002年)より引用。
『雍州府志』では三鈷寺山という山名が挙げられているもののどの山を指すのかは不明。寺名の元となった山(髢嶽)のことを指すのか、寺のあるあたりの地名(支峰)のことか…。
○都名所図会(1780年/安永9)
『都名所図会 巻之四 右白虎再刻』
「西山三鈷寺 (中略) 当山の絶頂を髢嶽(かもじがだけ)となづく、三峰ありて其形三鈷に似たるをもつて三鈷寺といふ。土人曰、此巓より二大仏七城見ゆるといふ、所謂二大仏は京奈良なり、七城は京、大阪、淀、郡山、高取、高槻、亀山等か」
https://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/page7t/km_01_330.html
「髢嶽」が最初?に登場する古文書。髢(かもじ)とは「髪を結ったり垂らしたりする場合に地毛の足りない部分を補うための添え髪・義髪のこと」で、「日本の女性がいわゆる日本髪を結う際に用いることが多い」とのこと(Wikipediaより)。三鈷寺からみると三峰並んだ山容が、いわゆる時代劇で見るような日本女性の髪形に似ていることからの呼称のようです。※URLの翻刻文では「髢」ですが原文では「𩭓」の漢字。また、以降「二大仏七城」と表現される絶景の地の記述があるのも特徴。
なお、髢(かもじ)や漢字の表記に関する考察はこちらが詳しいです。→きょうのまなざし>ポンポン山の由来>髢嶽(かもじがだけ)と鴨瀬山 三鈷寺
https://www.kyotocity.net/diary/2014/1012-ponpon_yama-abeno_harukas/#x29b53
○京都名所順覧記(1877年/明治10)
『京都名所順覧記 : 改正各区色分町名』
「三鈷寺 當寺の西の方 髪ケ嶽(かもじがだけ)といふ巓(いただき) 平面にして踏鳴せはポンゝと鳴る據て 俗にポンポコ山と云 絶景なり」
https://dl.ndl.go.jp/pid/765640/1/85
「髪ケ嶽」の名称。漢字の表記揺れ?
○京都府管内地誌(1881-82年/明治14-15)
『京都府管内地誌 山城之部』
「𩭓山(或云、鴨瀬山) 石作村西南ニ在リ、山巓ヨリ畿内ノ七城ヲ臨ム、此聳高想像スヘシ」
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/765604/1/29
「𩭓山」の名称。
○山城地誌(1883年/明治16)
『山城地誌 : 小学 2版』第六章 乙訓郡
注「髷(カモセ)山 一ニ 鴨瀬ト曰フ」
注「髷山ノ山腹ニ善峰寺 其北ニ西岩倉金蔵寺アリ」
「此に続きて西境に屹立する髷嶽ハ 其頂より遠近敷国を眺望すべし 三鈷寺其山腹にあり」
https://dl.ndl.go.jp/pid/765992/1/31
「髷山」の名称。
○京都府地誌(1881-84年/明治14-17)
『京都府地誌 乙訓郡誌一』
「山城国乙訓郡出灰村
(中略) 疆域 東ハ同郡小塩村ト髢嶽(即鴨瀬山)ヲ以テ界シ、」
https://dl.ndl.go.jp/pid/9576749/1/233 (『史料京都の歴史 第15巻(西京区)』)
「山城国乙訓郡石作村
(中略) 鴨瀬山 或ハ髢岳ト称ス。本村西南ニアリ。高サ三十八丈、周回三里。嶺上ヨリ二分シ、東南ハ小塩村ニ属シ、西北ハ本村ニ属ス。山脈南方小塩山、東南鉢伏山ニ連ナル。樹木翳鬱、登路一条、本村ヨリ左折シ、字杉山ヨリ登ル。凡一里十六町。路甚タ嶮ナリ。」
https://dl.ndl.go.jp/pid/9576749/1/227 (『史料京都の歴史 第15巻(西京区)』)
髢嶽=鴨瀬山。
○白木の聖者 : 西山上人の生涯(1948年/昭和23)
「此の往生院は又古くから三鈷寺とも称せられた。それは背後の山が三峰並び峙つて三鈷の形に似て居るからであると言ふ。(中略) 此の地は京都を去る約三里、山城國乙訓郡大原野村大字石作字灰谷の上、所謂三鈷寺山の頂をやゝ下つた處にある。絶頂は髢(かもじ)嶽と云ふ。蓋し三峯並時の形に對する俗称である。三鈷の名は俗耳に解し難いからである。古来頂上に登臨すれば二大佛七城が望み見られると傅へた。即ち京都、奈良の二大佛殿、京都、大阪、淀、郡山、高取、高槻、亀山の七城をいふものゝ如くである。誠に眺望絶佳、俗塵遠く及ばず、心天外に遊ぶの慨がある。」
https://dl.ndl.go.jp/pid/1155833/1/40
「三鈷」は一般の人々には分かり難いだろうから、同じように三峰並んだ形の「髢(かもじ)」という名前が使われたのだろう、という説。
◇神峯寺嶽
本山寺や神峰山寺方面からの呼称。
詳細は『京都の地名検証2』or『新ハイキング関西』の綱本逸雄氏の解説が詳しいです。→『新ハイキング関西20号』>山岳宗教の山、ポンポン山
http://hanatabi.sakura.ne.jp/shinhai/020.htm
○摂津名所図会(1796年/寛政8)
巻之五 嶌上郡
「北山本山寺霊雲院 (中略) 神峯寺嶽(かぶじがだけ) 當山より二十町許り北にあり。山州善峯寺の行路なり。これより七城二大佛見ゆる。城攝の界なり。都名所圖會にも著す。」
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/9575421/1/146
都名所図会(1780年/安永9)では「髢嶽(かもじがだけ)」の名称ですが、摂津名所図会では「神峯寺嶽(かぶじがだけ)」と紹介されています。
○新改正攝津國名所舊跡細見大繪圖(1836年/天保7)
https://archives.nishi.or.jp/04_entry.php?mkey=14752
絵図。神峯寺の北、本山寺の東に「神峯寺(カブジ)嶽」の記載あり。
○大日本地名辞書(1907年/明治40)
『大日本地名辞書 上巻』(吉田東伍,冨山房,1907)
「本山寺 (中略) 寺背の峯は標高六百四十米突に及ふ、東は神峰山(カブサン)に連接す」
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/2937057/1/218
◇出灰山
出灰村方面からの呼称。
特に一休和尚との関連で「譲羽山」とも。
○山城名勝志(1705年/宝永2)
「譲羽山 今出灰村善峰寺西一里餘 山中在 此村中河有 丹波堺云云」
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/2997296/1/159 (『新修京都叢書 第7巻』(光彩社,1967年))
○五畿内志(享保)
『卷第三 日本輿地通志 出城國之三 乙訓郡』
https://dl.ndl.go.jp/pid/1179429/1/62
「出灰山 出灰村上方 此地 昔貢石灰朝 僧一休嘗隠于此退」
○〈京之水〉花洛往古図(1791年/寛政3)
https://adeac.jp/iwasebunko/catalog/mp02008700
絵図に「譲羽山(ユヅルハヤマ)」の名称あり。
○京都名所案内図会 坤(1881年/明治14)
https://dl.ndl.go.jp/pid/765629/1/32
「出灰山 出灰村ノ上方ニアリ往古石灰ヲ朝貢ス一休和尚モ住シト云フ」
◇高塚山
川久保方面からの呼称。
○大沢村・尺代村と川久保他十七ヵ村の入会権をめぐる山論(1640年/寛永17)
「大沢村山 烏か岳―狸か迫の尾―まる山の尾―よこ谷圦石尾の白石―高塚山頂の線の西北部
尺代村山 高塚山の東、うし谷・いちか谷
十七ヵ村山 的谷・屎野・浄釈谷」
https://dl.ndl.go.jp/pid/9573646/1/219 (『島本町史 本文篇』1975年)
→この高塚山がかもせ山を指すかどうかは要検証?
○大阪府全志 巻之三(1922年/大正11)
「大字川久保 (中略) 北方山城國乙訓郡に界する所に高塚山あり。山は高峻にして山城・大和・河内・和泉・丹波・近江の七ヶ國を一眸に収むるを得べし、往時國界を表せし山なるを以て此の名を得たりといふ。一にぽんぽん山の称あり、人あり之を踏めば鼓聲を発するに依れり、勝地を以て名あり。」
https://dl.ndl.go.jp/pid/9573104/1/385
○雑誌『禅文化 第51号』(1969年/昭和44)
丹波の一休和尚(安宅雅夫)
「尸陀寺の背後の山は現在はポンポン山と呼ばれているが、旧名は高塚山と称し、明治以前は比叡、比良、生駒、葛城、金剛、愛宕の諸山と共に近畿七高山に数えられた山で、山中に神峯山寺、本山寺があり、役の小角の開基といわれている。」
https://dl.ndl.go.jp/pid/6082246/1/23
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国立国会図書館デジタルコレクションのリニューアルで古文書の検索がかなり容易になり、これまで日の当たらなかった記述もいくつか見つけられたものと思います。
今回調べた中で面白かったのは、江戸時代中頃の古文書で「カモセガ嶽/かもせがだけ」(山城名跡巡行志/1754年)、「髢嶽/かもじがだけ」(都名所図会/1780年)、「神峯寺嶽/かぶじがだけ」(摂津名所図会/1796年)と、ほぼ同時期の古文書で、漢字が異なるものの読みが非常に似ていたことです。
○山城名跡巡行志(1754年/宝暦4)
「カモセガ嶽トイフ所アリ 此所絶景也 晴天時 渡京都南都之大佛見 又大坂丹後ノユラノ湊マデ見ユ 又釋迦嶽同景色勝ル 亦此嶽足以踏時 大皷如響爲」
○都名所図会(1780年/安永9)
「西山三鈷寺 (中略) 当山の絶頂を髢嶽(かもじがだけ)となづく、三峰ありて其形三鈷に似たるをもつて三鈷寺といふ。土人曰、此巓より二大仏七城見ゆるといふ、所謂二大仏は京奈良なり、七城は京、大阪、淀、郡山、高取、高槻、亀山等か」
○摂津名所図会(1796年/寛政8)
「神峯寺嶽(かぶじがだけ) 當山より二十町許り北にあり。山州善峯寺の行路なり。これより七城二大佛見ゆる。城攝の界なり。都名所圖會にも著す。」
いろいろと妄想が膨らむのですが、「カモセガ嶽」は昔からの呼称である「かもせ山」が元であろうし、「髢嶽(かもじがだけ)」はカモセガ嶽から変化したのであれば「髢(かもじ)」という女性の髪形に似た山容と掛けたのはセンスの高さを感じます。「神峯寺嶽(かぶじがだけ)」については、都名所図会で髢嶽とあるのに敢えて神峯寺嶽という名前に直しているのは、摂津国から見ると自分たちの山だという主張が感じられます。さらに神峰山(かぶさん)から「かもせ」に転訛したとする綱本逸雄説を踏まえれば、逆にかもせ山から神峯寺嶽に戻った(ように見える)のは一種の先祖返りのようで面白く。あくまで妄想ですが。
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