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千歳通りから祖師谷公園、仙川、砧公園と巡る世田谷の染井吉野🌸黄金コースを走ってきた。週末の冷え込みで今朝も最低気温5℃だったから、まだ五分咲きくらい。気温が上がる週の半ば以降に見頃を迎えるはず。今シーズン、もう一度見に行けるといいなあ。
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オーディブルは中川毅『人類と気候の10万年史』が今朝でおしまい。
第2章「気候の歴史をさかのぼる」より。
グリーンランド氷床のボーリング調査によって明らかにされた過去6万年の気候変動の歴史。1万6000年前以降は安定した温暖な気候。それ以前の氷期は安定とはほど遠く、ダンスガード=オシュガー(D-O)イベントと呼ばれる急激な温暖化が頻繁に起こっていた(過去6万年で17回、氷期全体では20回超)。だが、D-Oイベントにはミランコビッチ理論のような単純な周期性は見たらない。
ミランコビッチ理論の3つの周期。①公転軌道の10万年周期。→10万年ごとに繰り返される温暖化(間氷期)。②地軸の傾きの4万1000年周期。③地軸の向きが円運動する2万3000年周期。→モンスーン地域全域の降水量をリズミカルに変動。エルニーニョ現象にも影響。だが、ミランコビッチ理論が「時計」として成り立つのは数百万年前までで、それ以上になると誤差が発散してしまう=カオスが発生する(他の惑星や月の重力が地球の公転軌道に影響を与える、潮の満ち引きにともなう海水と海底の間で生じる摩擦が月を地球から遠ざける、大陸移動やマントル対流が地球の重心位置を変化させる、降り注ぐ隕石が地球の軌道に影響を与えるなど、さまざまな要因があげられる)。
「1000年間まったく狂わない時計が存在しないように、ミランコビッチの時計も永遠に正確な時を刻みはしない。あらゆる未来予測には適用限界がある」
二重振り子の挙動は実験的に生成される典型的なカオスの例。
「なにしろ、系を構成する要素は2つの振り子と重力だけである。複雑に見える運動であっても、力学の法則を当てはめることによって掲載が可能であると考えるほうが自然である。じっさい二重振り子であっても、コンピューターによるシミュレーションなら、まったく同じ条件を何度でも再現できるし、そのたびに振り子の軌跡は完全に同一になる。その意味では、二重振り子の問題もコンピューターの中では決定論的である。だが現実の世界は、シミュレーションの世界よりも複雑な陰影に富んでいる。
たとえば、振り子から手を話す位置を厳密に全開と同じにすることは、現実的には不可能である。髪の毛1本分、前回より高かったり低かったりする。かすかに付着した汗が錘の重さを変える。振り子のまわりの空気の流れも微妙に前回とは違う。温度や気圧、湿度などの違いは、空気の粘性やベアリングの摩擦係数に影響を与える。太陽や月の運行によって、潮汐力の働く向きや強さも時々刻々と変化する。
これらのわずかな違いは、単純な系ならばほとんど問題にならない。たとえば机がほんの少し傾いたからといって、砂時計や振り子時計の精度に大きな違いが生じることはない。満月の夜も三日月の夜も、時計は変わることなく同じ時を刻もうとする。だが二重振り子の場合はそうはいかない。最初のうちは、それでも前回と似たような挙動を見せる。しかし、最初は目に見えなかったわずかな違いが、二重振り子の場合には時間とともに急速に拡大していく。「初期値に対する鋭敏性」などと呼ばれる現象である。このため二重振り子が描く軌跡は、実験をくり返すたびにまったく違う形になってしまう。一卵性双生児の人生が決して同一でないことと、原理において通底する現象である。
初期条件のわずかな違いに対する鋭敏性を、数学的にリアプノフ指数という指標で表現することがある。カオスを発生するような系では、この値が指数関数的に発散することが知られている。言い換えるなら、二重振り子の挙動は数学的に予測が「困難」なのではない。どれだけ計算の精度を上げようとも、予測が実質的に「不可能」であることが数学的に保証されているのである。
しばしば指摘されることだが、ハイゼンベルクの不確定性原理やゲーデルの不完全性定理など、20世紀に人々の考え方を根幹からゆさぶった知的発見のいくつかは、ある種の「不可知性」を指摘したという点において、不思議と共通する手触りを持っていた。複雑な系の挙動に特徴的な、初期値に対する以上なほどの鋭敏性と予測不可能性は、その意味できわめて20世紀らしい発見であった」
200個の色の違うボールの色をあるルールの下で時間とともに変化させる。
「結果のグラフには2つの大きな特徴があった。ひとつめは、安定した状態と乱雑な状態がくり返すということである。このような現象は、数学の言葉で「カオス的遍歴」と呼ばれる。安定な相と乱雑な相の境界は、一概にきわめて明瞭だった。外から何の操作もせず、系そのものに勝手に時間発展させただけであることを思い出すと、これほど特徴の異なる2つの状態の間を飛び移る現象は印象的だ。それはまるで、物事の状態の変化には外的な原因がある場合もあるが、原因がない場合もありえるということを主張しているかのようである。
もうひとつの重要な特徴は、2つの相が切り替わるタイミングである。いくら実験をくり返しても、切り替わりのタイミングには法則性が見られなかった。つまり、安定な相や乱雑な相があとどれくらい続くのか、事前に予測することは不可能だった。
このグラフが表現しているものは、あくまでもボールの色の平均値であって、地球の平均気温ではない。つまり、このような変化のパターンがそのまま気候変動に当てはまるかどうかには、大いに議論の余地がある。だが、安定相と乱雑相の間で不規則な転移をくり返す様子を見たとき、私はきわめて直感的なレベルで、グリーンランドで復元された気候変動に「似ている」と感じた。すなわち、氷期はあまりにも乱雑であり、間氷期はあまりにも安定であり、その境界はあまりにも急激だった」
「相転移を含むこのような変動パターンが、部分においては単純な線形相(安定相)や周期相を含んでいるという事実は興味深い。そのような相の中にいる限りは、近い将来の変動を単純なモデルで予測することにもそれなりに意味がある。つまり、短い時間の中であれば「これまでの傾向が今後も続く」こともあるし、「二度あることは三度ある」と言ってしまっていい場合もある。ただし問題は、ひとつの相が永久には続かないということ、すなわちどこかのタイミングで、それまで通用していた予測の方法がまったく使えない時代に突入してしまうということである。そのような変化がいつ起こるかは、基本的に予測できない。ある種の前触れがあったとしても、次にくる時代の性質をあらかじめ知っておくことまではできない」
「もっとも深遠な知恵の多くは、経験を通して培われる。健康マニアになるには、強迫観念と読書だけで足りる。しかし、複雑系の代表例である人体が、どんなに気をつけていても常に意のままになりはしないとこを理解するには、ある程度の経験を重ねて大人になる必要がある。いっぽう、さまざまな気候変動をじっさいに経験しながら知恵を育てることは用意ではない。ほとんどの地質学的な事象に対して、平均的な人間の寿命は短すぎる。それでも万が一の場合に通用する「知恵」を養おうとするなら、過去にじっさいに起こった事象について、経験ではなく研究を通して学ぶ以外に方法はない」
第3章「気候学のタイムマシン−−縞模様の地層「年縞」」より。
水深34mの水月湖が長期の年縞を刻んだ激レアな湖だった理由。①濁流によって頻繁に湖底が荒らされない→湖に直接流入する川がない。②湖底に巣穴を掘る生物がいない→湖底の酸素濃度が0%に保たれている。③湖底に堆積物がたまっても干上がらないほどの深さが必要→堆積物がたまるペースを上回るスピードで湖底がつねに沈降していれば、長期にわたる年縞が積み重なる。④人間によって浚渫(堆積物のたまった湖底を掘って船が航行できる水深を確保する)が行われない→人間の経済活動とは無縁である。
春から夏にかけては黒っぽい層、秋から冬にかけては白っぽい層ができるため、1年に1枚ずつ、平均0.7mmの厚さの地層がたまっていく。1000年で70センチ、1万年で7メートル。水月湖には7万年分、45mの年縞がたまっている。年縞のない年代も含めれば、15万年もの長い歴史が水月湖の土に記録されている。
第4章「日本から生まれた世界標準」より。
古気候学で使われる年代決定手法。①樹木の年輪年代学。埋もれ木を探して新しい木とつなぎ合わせる地道な努力の結果、1万2600万年前までの目盛りが完成、地質学の「標準時計」となる。②熱帯サンゴのボーリング試料。サンゴの体内に取り込まれたウラン系列のトリウムの崩壊速度の異なる同位体を使った年代推定法(ウラン・トリウム法)。フランス中心。③鍾乳洞の石筍(地面から筍のように成長するもの)の年代をウラン・トリウム法によって決定する。アメリカ中心。④放射性炭素14C年代測定。自然界に存在する炭素には、質量数12、13、14の3種類の同位体があり、そのうち14Cだけが放射能をもち、時間とともに徐々に別の物質に変わってゆく(5万年で残存量はゼロになる=適用できるのは5万年前まで)。12Cや13Cに比べて14Cがどれだけ減少したかを測れば、試料の年代を推定できるため、最もポピュラーな方法だが、精度が低い。たとえば1万5000年前ではプラスマイナス3000年の誤差のため、そのままでは使い物にならない。年輪のような正確な年代との換算票を整備して、年代のキャリブレーション(年代較正)をしなければならない。→1万2600年前から14C年代測定の上限5万年前の空白を埋める「標準時計=ものさし」が求められていた。→2012年からは水月湖がその任を果たすことに。
第5章「15万年前から現代へ−−解明された太古の景色」より。
「(ロシア生まれのドイツ人地理学者、「ケッペンの気候区分」の生みの親であるヴラディーミル・ペーター・)ケッペンは大陸移動説で有名なアルフレッド・ウェゲナーの義父でもある。ケッペンとウェゲナーは、熱狂的に迎えられたとは言えない初期のミランコビッチ理論を強く支持し、同理論が広く受け入れられるきっかけを作った。ミランコビッチ理論と大陸移動説、それにケッペンの気候区分を加えると、現代の自然地理学にとって重要とみなされるトピックのほとんどは、その中に入ってしまうか直接の影響下にある。それほどの裾野を持った息の長い学説が、同時代の同じコミュニティの中から3つも立て続けに生まれたことは、おそらく偶然以上の意味がある。20世紀初頭のドイツ語圏にはきっと、研究者の頭をひどく活性化させる、よほど特別な空気が流れていたのだろう」
水月湖の直径7.6cmのボーリング試料の何を調べるべきか。葉っぱの化石は1300枚含まれていたが、5万年で1300枚ということは、平均38年に1枚しかない。それでは当時の景観を復元するにはとても足りない。そこで登場したのが花粉分析。直径数十マイクロメートルの花粉には雄の生殖細胞のDNAが含まれる。DNAを守るために硬い殻を発達させた花粉は、非常に安定した物質で通常の酸やアルカリでは分解できない。
「抽出した花粉化石を顕微鏡で観察すると、そこにはさまざまな形の花粉が含まれている。(中略)花粉化石の数は膨大なので、形の違う花粉の数を数えれば、どの樹種が多いか少ないかを割合で計算することもできる。樹種の構成や割合が分かるということは、すなわち植生景観が分かるということにほかならない」
第6章「過去の気候変動を再現する」より。
南極の氷床のボーリング試料を溶かし、出てきた昔の空気を分析すると、大気中の温室効果ガスの濃度を直接測定できる。メタンとCO2の濃度の変動パターンは、過去何十万年にもわたってミランコビッチ理論と整合性が保たれている。
「それによると、最近の1万年ほどについては、メタンも二酸化炭素も減少しているのが「本来」の姿であるらしい。
だが実際のデータを見ると、メタンは5000年前、二酸化炭素は8000年前頃から、ミランコビッチ理論で予測される傾向を大きく外れて増加していた。ラジマン教授はこの原因を、アジアにおける水田農耕の普及、およびヨーロッパ人による大規模な森林破壊にあると主張して学界に衝撃を与えた。
水田は湿地に似た環境を作ることで有機物の発酵をうながし、大量のメタンを放出する。また森林伐採は、生態系の光合成速度を低下させることで大気中の二酸化炭素を増加させる。人間がこれらの活動を開始したことが、大気中の温室効果ガスが本来の傾向を上回って増加し始めたことの原因であり、もしこれらの人間の活動がなければ、地球はすでに次の氷期に突入していたはずだというのが、ラジマン教授の仮説の骨子だった。
産業革命の後、人間が化石燃料を大量に使用するようになったことで、大気中の二酸化炭素が増加しているらしいことは大半の研究者が認識していた。だがラジマン教授の主張は、人間が気候を左右するようになった歴史は、100年前ではなく8000年前にさかのぼるということを意味していた。もし私たちが、温室効果ガスの放出によって「とっくに来ていた」はずの氷期を回避しているのだとしたら、温暖化をめぐる善悪の議論は根底から揺らいでしまう。私たちは自然にやってくる氷期の地球で暮らしたいのか、それとも人為的に暖かく保たれた気候の中で暮らしたいのか。これはもはや、哲学の問題であって科学の問題ではない」
1万1600年前に終わった最後の氷期の後は、安定して温暖な気候が(想定よりも)長く続いている。
「氷期が終わる瞬間に起こった温暖化の振幅は、氷期・間氷期サイクル全体の振幅よりかなり小さく、およそ数℃に収まっている。ただし、IPCCが予測している今後100年間の温暖化が数℃ないし最大で5℃程度であることを考えると、氷期の終わりに起こった温暖化も同程度に深刻であったと言うことはできる。
もうひとつ注目したいのは、気候の安定性である。氷期の最末期には、気温が単に低いだけでなく、気温の変動性が高い。言い換えるなら、安定していない。図の中に示した帯は、現在の日本人の平均寿命を表している。当時の寿命は今よりも短かったと推察されるが、それでも氷期末期には、数℃に達する気温の上下が一生の間に数回は起こっていたことが分かる。IPCCの未来予測が、100年かけて徐々に進行する温暖化を1回だけ想定しているのと比べると、これはかなり激しい変動である。
そのような不安定な時代は、しかし、あるときを境にとつぜん終わった。花粉のデータは1センチメートル刻みでしか得られていないため、残念ながら変化のスピードを花粉から正確に読み取ることはできない。だが、その部分の堆積物をよく見てみると、氷期の年縞は薄くて黒っぽいのに対し、暖かくなった後の年縞は厚みが倍近くあり、色も白っぽいことが分かる。
このような色と厚みの違いがどのような要因によるものかは、じつはまだ解明されていない。だが、何らかの環境変化を繁栄していることはまちがいない。境目はものさしで引いたように明瞭なので、水月湖の堆積環境は、おそらくある1年を境にとつぜん変化した可能性が高い。つまり氷期は、まるでスイッチをパチンと切ったかのように、本当に急激に終わったらしいのである。スイッチが切り替わった後では、水月湖のまわりの気候は温暖になり、しかも数十年スケールで激しく変動することをやめて安定になった。それは、人間にライフスタイルや価値観の変更を迫るほどの、本質的で急激な変化だった。
ちなみにグリーンランドの氷床の研究からも、氷期の終わりが本当に急激な変化だったことは示唆されている。2005年に「ネイチャー」誌に発表された論文によれば、グリーンランドを取り巻く大気の流れが完全に切り替わるのに要した時間は、「長くても3年程度」だったらしい。これは、水月湖の年縞堆積物に明瞭な境界線が見えることと基本的に合致している。また、水月湖とグリーンランドのそれぞれの年代目盛りを用いて変化のタイミングを推定すると、両者は実質的に同時だったらしい。おそらく氷期の終わりは、一瞬で北半球全体、ひょっとすると全世界をも巻き込む、本当の意味での大事件だったのだろう。
ある年を境に世界の相貌がまるで別のものになってしまうような大事件を、有史以来の人類は一度も目撃していない。未曾有と思われるIPCCの将来予測にすら、氷期の終わりほど劇的なスイッチの切り替わりは含まれていない(100年かけて徐々に進行する変化と、長くても3年、場合によっては1年で完結してしまう変化は質的にまったく別のものである)。しかも氷期が終わった当時、温室効果ガスの排出や森林伐採といった大規模な人間活動はまだ始まっていない。つまり自然は、人間が引き起こすよりもっと激しい気候変動を、内部から発生させる力を潜在的に持っているのである」
第7章「激動の気候史を生き抜いた人類」より。
「(人類史上最初の農耕の遺跡とされる)アブ・フレイラ遺跡から見つかった栽培植物の種子(ライムギ、ヒトツブコムギ、レンズマメ)の化石は、14C年代測定によっておよそ1万2000年前のものであることが判明している。いっぽうグリーンランドの氷の分析によれば、氷期が終わったのはおよそ1万1650年前のことである。つまり、アブ・フレイラで最初に栽培された植物は、氷期の終焉よりもわずかではあるが古い。
この事実をもって、人ついは氷期から農耕を開始していたと主張することはたしかに可能だし、そのような説は現在のところ学界の主流を形成してもいる。だが同じ事実のもうひとつの重要な側面は、氷期に農耕を始めた文化圏がナトゥーフ以外にほとんど見当たらないということである。ナトゥーフにおいてすら、いったん試みられた農耕は、比較的短期間のうちに放棄されてしまったらしい。人類は何らかの事情で、氷期に農耕を開始したのかもしれない。だが氷期において、農業は少なくともポピュラーな技術ではなかった。氷期の生活戦略は、すべての大陸において圧倒的に狩猟採集だった。
農耕が人類の生活を支える重要な技術として確立し、世界の各地に急速に受け入れられていくのは、氷期の後の温暖な時代である。メソポタミアでも中国でも、農耕がおこなわれたことを示す最初期の遺物は、氷期が終わった直後から出土が始まり、その後は急速に拡大の一途をたどる。(中略)農耕は、氷期が終わるのを待っていたかのように世界中に拡散した」
氷期に農耕が普及しなかった原因は、①気温が低すぎて作物がうまく育たなかったから?→氷期でもそこそ暖かかった熱帯で農耕が行われた形跡は見つかっていない。②人口が少ないため狩猟採集で十分まかなえたから?→D-Oイベントで一時的に増えた人口を養えなかったことが、氷期のアブ・フレイラで農耕が試みられた理由とみなされている。③当時の人類はまだ農耕ができるほど賢くなかった?→氷期が終わったとたん、人類が賢くなったという説明にも無理があるのでは?
氷期末期の気候はきわめて不安定で、同じ気候が何年も続くことはなかった。仮に農耕をおこなっていたとすると、1年目は豊作で、2年目は不作、3年目はふたたび不作……ということが普通に起こり得た。「農耕に立脚する文明の多くは、1年の不作であれば乗り切れるだけの食料備蓄を持っていた。つまり、異常気象が1年で終わるなら、それはある程度の規模と複雑さを持った文明にとっては致命的ではなかった」。だが、不作が数年と続くと、食料備蓄を放出してふたたび備蓄することができない。1年は我慢できても2年目には詰んでしまう。
「このような暮らしを端的に表現するなら、それはほとんどの生活者にとって「耐えがたい」ものであるに違いない。政治指導者にとっても、統率力を維持できるかどうかの瀬戸際の試練だろう。そのように考えてみると、気候がまだ安定していなかった時代に、農業を始めることに積極的な魅力を見いだす人がいなかったのは、むしろ当然のように思えてこないだろうか」
一方、狩猟採集なら、不安定な気候でも、多様な生態系の中には耐性を持つ種、あるいは積極的にそうした気候を好む種がいて、安定的に食料を確保できる(ただし、それによって維持できる人口は農耕に比べると少数になるが)。
「もちろん、植物が死に絶えて砂漠化が起こるほどの乾燥化や、大地が氷床に覆われるほどの寒冷化が起こった場合には、さすがに狩猟採集民であっても生活を維持することは難しい。しかし、農耕民に比べて定住することの必然性に乏しい狩猟採集民は、それほどの危機に見舞われた場合には、比較的容易に移動してしまうことができる。「先が読めない」ことに起因する不都合は、けっきょく農耕民より少なくて済みそうである。
気候が安定しているときに、農耕をおこなって生産性を高めるか、あえて狩猟採集段階にとどまるかは、人口さえ過剰でないなら、突き詰めれば「哲学の問題」に帰着すると述べた。だが気候が不安定な場合には、事態はそれほど牧歌的ではなくなる。来年が今年と似ていることを無意識のうちに期待する農耕社会は、気候が暴れる時代においては明らかに不合理である。
言い換えるなら、氷期を生き抜いた私たちの遠い祖先は、知恵が足りないせいで農耕を思いつけなかった哀れな原始人などではなかった。彼らはそれが「賢明なことではない」からこそ、氷期が終わるまでは農業に手を付けなかったのだ。その一方で、アフリカを出てからわずか数万年の間に、世界のほぼすべての気候帯にまで分布を拡大することができた彼らは、したたかで沈着で順応性に富み、さらに好奇心とバイタリティまで併せ持った、偉大な冒険者たちだった」
エピローグ「次に来る時代」より。
「気候がふたたび暴れ始めるとしたら、人間社会にはどのような影響があるのだろう。
ひとつだけ確かなのは、農業に基盤を置いた社会が深刻な見直しを迫られるということである。9年に6回の干ばつは、古典期のマヤ文明を崩壊させた。もし1993年のような夏(極端な冷夏でコメ不足に陥り世界中のコメを買い漁った)が、今から9年の間に6回やってくるとしたら、経済大国日本といえども決して無傷ではいられない。来年の夏が米作に向いているのか、冷夏を見越してソバを植えたほうがいいのか、あるいは熱帯の根菜類を植えるべきなのか、事前に知ることのできる方法は存在しない。
まだ氷期が終わる前、気候がじっさいに暴れていた頃、私たちの祖先は予測のつyかない世界を狩猟採集で生き延びた。では狩猟採集生活に戻れば、気候がふたたび暴れはじめたとしても生き残ることができるのだろうか」
→農耕と同じ人数を狩猟採集で支えることは不可能。農耕によって維持できる人口は狩猟採集の20〜100倍。都市の人口密度はさらにその10倍。21世紀末に100億人に達しると推計される世界人口は、氷期が終わった時点の人口(50〜100万人)と比べると、1万倍!
「私たちはすでに、農耕と近代科学を前提とした人口を抱え込んでしまっている。このことを裏返すと、もし私たちが狩猟採集に戻らざるをえないとすれば、生き残れるのは1000人あるいは1万人に1人であるということを意味する。人類が遭遇する可能性のある災害としては、間違いなく最大級のものに違いない」
「不測の事態を生き延びる知恵とは、時間をかけて「想定」し「対策」することではない。運動方程式をどれだけ解いたとしても、飛んでくるテニスボールを打ち返すことはできない。必要なのは、個人のレベルでは想定を超えて応用のきく柔軟な知恵とオリジナリティであり、社会のレベルでは思いがけない才能をいつでも活躍させることのできる多様性と包容力である。
100億という数は、人間の大脳を構成する神経細胞の数におおむね匹敵する。それだけの数の細胞がシナプスを通して相互作用することで、人間は宇宙の構造にまで思いを馳せることができた。同じ数の人間が相互作用したとき、産み出すことのできる知恵の数も同様に無限であるはずだ。
そのネットワークの末席に、古気候学者として連なっていこうと思う」
自分もその末尾に加わりたい。
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