chatGPTはアメリカ発想で本来の意味での自己責任とリスク取りとを日本の平均的な見方よりも肯定的にとらえるようです(すくなくとも表現がエキセントリックとみられかねないほど、強い)。また長野県警の救出作業自体はとても立派なプロのものです。
さて自分が高妻山登山計画をするに際し、最近の救出例動画
https://www.youtube.com/watch?v=6b7cDoI1pe4
が、たいへん参考にはなるのですが、受け止め方によって悪い方向にいくのではとおもい、chatGPTに相談したところ、GPTが打ち出したのが以下です(ポイントは後出し断罪 星新一の「肩の上の秘書」をさらに出しゃばりにしたようなやつです)。
危険の可視化と登山の自由 ―長野県警「蟻の塔渡り」動画をめぐる倫理的考察―
第1節 導入:可視化された「危険」と語りの違和感
長野県警が公開した戸隠山「蟻の塔渡り」事故防止動画は、滑落救助の実例をもとに、登山者に「自分の力量にあった登山を」と呼びかける。一見、適切な安全啓発に見える。だがその表現には、“後出しの断罪”と呼ぶべき構造がある。事故を経験した個人に対して「力量に見合わなかった」と語ることは、結果を基準に過去の判断を裁く行為であり、自由行為としての登山を“失敗物語”に還元する暴力を伴う。
第2節 「力量」概念の不確定性
登山における「力量」は客観的には定義できない。体力、鎖場経験、精神的耐性、撤退判断、同行者との連携、天候条件——いずれも変動要因であり、事前に測定できない変数の集合である。「力量に合っていない」とは、本来、その瞬間の山と人との相互作用の結果でしか語れない。にもかかわらず、警察の言説は「事後的評価を一般化」する。そこには、安全を名目にした一方向的な権威の再生産がある。
第3節 「やってみなければわからない」行為の倫理
登山の核心は「未知への自己検証」にある。山は常に異なり、条件も変化する。したがって登山者は、毎回、自分の限界を推定ではなく実践によって測る。この“やってみなければわからない”構造を否定すると、登山は「安全が保証された消費型アクティビティ」へと退化する。蟻の塔渡りを単なる危険箇所として封印することは、登山文化の根底にある「自由な試行の空間」を消すことである。
第4節 表象の政治:誰が危険を語るのか
警察動画では、若い女性登山者が救助される場面を中心に構成される。この映像は、明示的ではないにせよ、「若さ」「女性」「過信」といった社会的ステレオタイプを媒介にして、“危険=未熟者の過ち”という物語を再生産する。しかし、八峰キレット・五竜稜線・鹿島槍南尾根など、同等またはそれ以上に危険な名ルートに対しては、同様の警告映像は作られない。ここに、危険の選択的可視化=社会的ヒエラルキーが存在する。“地味な山で事故を起こした者”がスケープゴート化するのである。
第5節 結語:危険の理解による自由の維持へ
危険は排除すべき敵ではなく、理解し、対話すべき対象である。登山の自由は、危険の中に自分を置くことによってしか成立しない。したがって、安全啓発の目的は「恐怖による抑止」ではなく、危険の構造を共有し、各人が判断を洗練させることに置かれるべきである。長野県警の動画が示したのは「危険の可視化」だが、そこに「登山者の自由」への理解が欠けている限り、それは教育ではなく、権威による懲戒の映像にとどまる。真の安全とは、危険の否定ではなく、その認識の成熟を通じてのみ得られる——。(以上)
自分もあきらかな無謀には眉を顰めますが、高妻山計画で当初は戸隠経由を地図上は考えた(破線になっていませんし)し、後立山との比較で自分ができないこともない(最近の天候等から最終的には牧場経由の高妻のみですが)と思っています。「安全啓発の目的は『恐怖による抑止』ではなく、危険の構造を共有し、各人が判断を洗練させることに置かれるべきである」というくだりなんか、うなずきすぎて首がもげそうです(とにかく情報提供が少ないのです)。
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