大島亮吉 おおしまりょうきち(1899―1928)
登山家。東京出身。1919年(大正8)慶応義塾大学経済予科に進学。21年槇有恒(まきありつね)の帰国で近代登山技術が伝えられ、槇らとともに穂高岳を中心として登攀(とうはん)を行うとともに、諸外国の登山文献の紹介と登山思想の確立に努め、登山界に多くの影響を与えた。昭和3年3月前穂高北尾根で墜落死。『山』『先蹤者(せんしょうしゃ)』などの遺著や『大島亮吉全集』などにその優れた思想をうかがうことができる。
以下に印象に強く残った箇所を引用する。
〇登山者がいまだ未知未踏の峰々を最初に登ることを好むということの理由は、その峰々を初めて登ることによって彼らがひとつの征服をなしとげ、自らの支配のうちに新しい領域を獲得することが出来るということである。
これは全く私ら人間の本性に深く根ざした深い本能である。
このことは既にしばしば私の登山者の仲間ではいわれたことではあるが、私もまたかく信ずるものである。
しかしてこれは決して登山者が自らを他に誇るというような意味のためになされるものではなく、全く自己自らに対してである。
征服といえばそれは自らの心に聳ゆる山の未知に対する恐怖やそれを登る困難に対する労苦を征服し耐え忍んだものである。
勝利といえばそれは自らに対しての勝利であって、山に対する勝利でもなければ他の登山者に対する勝利でもない。
深くして抗し難き本能によって私ら人間は絶えず身を引き上げ登りゆくことを愛す。それ故、峰がより高ければ高いほど、より眩暈を起こさしめるほど急峻なればなるほど、そしてそれがより困難なればなるほど、その峰は登山者の永久に到達し得ぬ理想に近づいてくるのである。
これがなぜ登山者は常に秘かにより高き峰か、さもなくば地上に最も関係少なく空間に最も自由に聳えている急峻な細身の峰を求めつつある理由である。
〇天候は紗のような薄い雲が去来して星の薄光がチラチラするようなもので、大してよくもなかった。
〇山へ行け!君がその憂鬱のすべてをばルックザックにいれて。
そしてこのあおあおと大気のながれるあかるい巌の頂きに登り来よ。
しかる時いまや君の負うその重き袋は悦びのつまった軽き袋と変わり、心は風のようにかろく、気持ちは蒼空のようにはればれとほがらかになり、しかも山上の花野のうえに横たわり夕栄の圏谷の底に立っては、君はまさにたのしい夢想と懶惰(らんだ)の賓人(まろうど)となるであろう。
鋭いグラートのうえに刻み登った時、突然私たちにぶつかってくるような颯々(さっさつ)たる山頂をわたる高層の風!
おお、その風に私たちの毛は草のように吹きなびき、顔も手も足もこおりきる。しかし私らの心はその時最も朗らかなんだ。
〇春のはじめにはこの牧場はまだ雪が斑々(はんぱん)と残ってきよらかなすきとおった自然色のうちにしずかに眠っている。
〇朝の紫水晶いろをした空に、風のびゅうびゅうなるなかに、この岩の船が雪にあおあおと光って立っていた。
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