『レディ・ジョーカー』は、高村薫の小説。警視庁警部補である合田雄一郎を主人公とした推理小説の一作である。シリーズ化されており、『レディ・ジョーカー』は、その合田雄一郎シリーズの第3作である。
1995年から1997年にかけて週刊誌『サンデー毎日』に連載され、1997年12月に毎日新聞社から上下2巻で単行本化された。のち、2010年4月に新潮社より文庫判が上中下3巻で刊行された。文庫本化にあたっては、内容が一部改変されている。
小説はグリコ・森永事件から着想を得て執筆された。
小説は1997年に第52回毎日出版文化賞を受賞、1998年に「このミステリーがすごい!」1999年版国内編第1位を獲得した。
2004年12月に日活により映画化され、2013年3月にWOWOW「連続ドラマW」枠でテレビドラマ化された。
社会派小説の大作と言われているが、サラリーマンいや企業戦士として働き、40年前後勤め上げた人間の心理描写が共感できる。さらに組織の倫理が優先され顧客本位と言いながらそれは表向きで業績至上主義を未だに続けている各企業の中で、真に顧客本位や改善に努めている清々しい企業戦士達にとって、其の忸怩たる思いが共鳴できる小説である。
役員の娘と結婚した者が出世する、本当の状態を理解し改善を上司に諌言する者より、上司の耳に心地よい胡麻する奴が出世する現実。
そうまでして其の企業が社会の中で存続する必要はあるのか、という違和感を感じながら毎日地道に働く企業戦士の心情がとてもよく描かれている。
警察小説の体をとってはいるが、実は矛盾に満ちた企業や政治、マスコミの有り様を皮肉を込めて指摘しているのだ。
次の高村薫の本はどれを読もうかと悩み始めた。
心に残った印象的な文章
・思ふんだが、幾百年も寒さでねじくれてきた稻が、或るときすくすく伸び始める日といふのがあるのなら、いまがきっとさうだろう。個人的には、俺は實っても頭を垂れる稻より、實っても直立している麥になりたいと思ふがね。
・「釈明の余地のない逸脱行為だ!」と、課長代理が代わりに怒鳴り、一緒につばが飛んできた。釈明の余地がないのではなく、釈明という行為が警察では許されないだけだった。上から黒だと言われたら、下は「はい」と言い、白だと言われても「はい」と言うのが警察だ、と半田は腹の中で考えた。そうして、かたちばかりの「はい」を一つ吐くたびに、自分の尊厳が一つ破壊される。それにもすでに慣れかけてはいるが、近ごろは自分の知らないもう一つの人格が、自分の中に出来あがりつつあるのを半田は感じていた。半田は頭を垂れたまま、叱責を浴びているもう一人の自分を傍観することで、当座の激情を抑え込むことに成功した。
・企業にとっては一銭の価値もない個人的な反省を、いまだからこそ城山はしていた。消費動向に即応出来ず、新商品開発競争に出遅れ、組織の改編に出遅れた結果、シェアが落ち始めたときに、ビール事業本部のトップだった自分はいったい何をしていたか。手をつけるべき課題はすべて分かっていながら、目先の数字に追われ、組織を動かす行動力を欠き、危機意識を欠いていたのではなかったか。そんな男が、ビール事業のてこ入れのための人事刷新で今度は社長になったとき、肝に銘じたのは、現在と将来の株主の利益と社員の生活を保障するという、単純明快な経営者としての義務と責任だった。自分に欠如している独創性や行動力を、たとえば義務という発想で補わなければ、社長なんかになれたものではなかった。
・悪で腐るのと、嫌悪と懐疑で腐るのとでは、はて、結果に差があるのか否か。時代と社会を汚して終える一生と、それを嫌悪しながら終える一生との間に、どんな差があるのか。
・その車輪もあと数日で止まるのは確実ないま、志半ばの無念や失意よりも、間もなく訪れる自由への手放しの渇望のほうが、自分の中で確実に大きくなっていることに、城山は驚いていた。会社と訣別してまったく新しい何者かになることが、長年背負い続けてきた肩書や懸案をすべて下ろして裸に戻ることが、これほどこころを躍らせ、湧かせるとは。まさにこの自由の悦びを味わうために、長年の社会生活があったのかと思うほどだった。
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