私は丁度白馬岳山行の途中で、白馬山荘のテレビを信じられない気持で見ていたことを思い出す。
今日2024年5月14日は安倍晋三元首相が凶弾に倒れてからまだ二年も経過していない。
安倍元首相の国葬で菅前首相が友人として弔辞を読んだ。
岸田総理大臣の弔辞よりも国民の感動を呼んだ。その菅前総理大臣の弔辞の中に、この本が紹介されていたので、いつか手に取ってみたいと思っていた一冊だった。
この一冊を図書館で借り受け、今読み終えた。
明治維新の尊攘の志士から、元老として権力に固執して明治大正期に君臨した山県有朋の姿を淡々と描いた一冊である。
伊藤博文でもなく大隈重信でもなく、山県有朋は国民に最も人気が無い政治家であった。
彼の陸軍創設や日清戦争での功績は理解できるが、元老政治や派閥政治を駆使し影で政府を操っている姿は、現在の日本政治に繋がる原型のような嫌な感想を抱いた。
権力に固執することが目的化した山県有朋の晩年の姿は、個人的にはとても不快な姿で描かれている。
若き頃、槍術で身を立てようとした山県が権力を得なければ良かったのにとさえ思う。
この本で原敬総理大臣のことに興味が湧いた。晩年の山県有朋が唯一評価したのが原敬であるからだ。
この一冊を読み通して面白いと思った箇所は、菅前総理大臣が弔辞で引用した箇所だけである。政敵である伊藤博文が韓国で凶弾に倒れた後の山県有朋の記述箇所である。
菅前総理大臣の弔辞を以下に引用する。
https://www.yomiuri.co.jp/politics/20220927-OYT1T50156/3/
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7月の、8日でした。
信じられない一報を耳にし、とにかく一命をとりとめてほしい。あなたにお目にかかりたい。同じ空間で、同じ空気を共にしたい。
その一心で、現地に向かい、そして、あなたならではの、あたたかな、ほほえみに、最後の一瞬、接することができました。
あの、運命の日から、80日が 経た ってしまいました。
あれからも、朝は来て、日は、暮れていきます。やかましかったセミは、いつのまにか鳴りをひそめ、高い空には、秋の雲がたなびくようになりました。
季節は、歩みを進めます。あなたという人がいないのに、時は過ぎる。無情でも過ぎていくことに、私は、いまだに、許せないものを覚えます。
天はなぜ、よりにもよって、このような悲劇を現実にし、いのちを失ってはならない人から、生命を、召し上げてしまったのか。
口惜しくてなりません。かなしみと、怒りを、交互に感じながら、今日の、この日を、迎えました。
しかし安倍総理……と、お呼びしますが、ご覧になれますか。
ここ、武道館の周りには、花をささげよう、国葬儀に立ちあおうと、たくさんの人が集まってくれています。
20代、30代の人たちが、少なくないようです。明日を担う若者たちが、大勢、あなたを慕い、あなたを見送りに来ています。
総理、あなたは、今日よりも、明日の方が良くなる日本を創りたい。若い人たちに希望を持たせたいという、強い信念を持ち、毎日、毎日、国民に語りかけておられた。
そして、日本よ、日本人よ、世界の真ん中で咲きほこれ。――これが、あなたの口癖でした。次の時代を担う人々が、未来を明るく思い描いて、初めて、経済も成長するのだと。
いま、あなたを惜しむ若い人たちがこんなにもたくさんいるということは、歩みをともにした者として、これ以上にうれしいことはありません。報われた思いであります。
私は、当選まだ2回の議員でしたが、「草の根の国民に届くならよいが、その保証がない限り、軍部を肥やすようなことはすべきでない」と言って、自民党総務会で、大反対の意見をぶちかましたところ、これが、新聞に載りました。
すると、記事を見たあなたは、「会いたい」と、電話をかけてくれました。
「菅さんの言っていることは正しい。北朝鮮が拉致した日本人を取り戻すため、一緒に行動してくれればうれしい」と、そういうお話でした。
信念と迫力に満ちた、あの時のあなたの言葉は、その後の私自身の、政治活動の糧となりました。
その、まっすぐな目、信念を貫こうとする姿勢に打たれ、私は、直感しました。この人こそは、いつか総理になる人、ならねばならない人なのだと、確信をしたのであります。
私が生涯誇りとするのは、この確信において、一度として揺るがなかったことであります。
総理、あなたは一度、持病が悪くなって、総理の座をしりぞきました。そのことを負い目に思って、2度目の自民党総裁選出馬を、ずいぶん迷っておられました。
最後には、2人で、銀座の焼鳥屋に行き、私は、一生懸命、あなたを口説きました。それが、使命だと思ったからです。
3時間後には、ようやく、首をタテに振ってくれた。私はこのことを、菅義偉生涯最大の達成として、いつまでも、誇らしく思うであろうと思います。
総理が官邸にいるときは、欠かさず、日に一度、気兼ねのない話をしました。いまでも、ふと、ひとりになると、そうした日々の様子が、まざまざと、よみがえってまいります。
TPP交渉に入るのを、私は、できれば時間をかけたほうがいいという立場でした。総理は、「タイミングを失してはならない。やるなら早いほうがいい」という意見で、どちらが正しかったかは、もはや歴史が証明済みです。
一歩後退すると、勢いを失う。前進してこそ、活路が開けると思っていたのでしょう。総理、あなたの判断はいつも正しかった。
どのひとつを欠いても、我が国の安全は、確固たるものにはならない。あなたの信念、そして決意に、私たちはとこしえの感謝をささげるものであります。
国難を突破し、強い日本を創る。そして、真の平和国家日本を希求し、日本を、あらゆる分野で世界に貢献できる国にする。
そんな、覚悟と、決断の毎日が続く中にあっても、総理、あなたは、常に笑顔を絶やさなかった。いつも、まわりの人たちに心を配り、優しさを降り注いだ。
総理大臣官邸で共に過ごし、あらゆる苦楽を共にした7年8か月。私は本当に幸せでした。
私だけではなく、すべてのスタッフたちが、あの厳しい日々の中で、明るく、生き生きと働いていたことを思い起こします。何度でも申し上げます。安倍総理、あなたは、我が国、日本にとっての、真のリーダーでした。
衆議院第一会館、1212号室の、あなたの机には、読みかけの本が一冊、ありました。岡義武著「山県有朋」です。
ここまで読んだ、という、最後のページは、端を折ってありました。そしてそのページには、マーカーペンで、線を引いたところがありました。
しるしをつけた箇所にあったのは、いみじくも、山県有朋が、長年の盟友、伊藤博文に先立たれ、故人を 偲しの んで詠んだ歌でありました。
総理、いま、この歌くらい、私自身の思いをよく詠んだ一首はありません。
かたりあひて 尽しヽ人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ
かたりあひて 尽しヽ人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ
深い哀しみと、寂しさを覚えます。総理、本当に、ありがとうございました。
どうか安らかに、お休みください。
令和4年9月27日 前内閣総理大臣、友人代表 菅義偉
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私は今日帰り登山から戻ったところです。
菅さんのことを、在職中はマスコミは叩いてばかり、後になって、例えばその弔辞は素晴らしいとか、よく言うよ、です。
でも素敵な弔辞でしたね。
自分で書き上げた、心からの弔辞でした。
山縣有朋のことはあまり知らなかったし興味もありませんでしたが、菅さんの弔辞を聞いて、安倍元総理が最後に読んでいた本という事で読んでみました。
山縣有朋は嫌な奴でした。でも江戸から明治・大正時代の男の典型かも…。
権力に執着する生き様は最低です。
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