この一冊はそれまでに上梓した紀行文にまつわる思い出や、初期の日本近代史に登場する内外の人物との交友記であり、山の紀行文集ではありません。
黎明期の日本登山史としても貴重な本です。
昭和初期の頃の文章とはいえ、比較的読みやすい文章でした。
小島烏水はウェストンに影響を受け日本山岳会を設立した人物です。
ウェストンの「甲斐ヶ根の登山」から作り上げた小島烏水の紀行文「甲斐の白峰」が一般大衆雑誌「太陽」に掲載され、大きな影響を当時の若者に与えたのです。
その小島烏水が近代登山に目覚めたのが、私の大好きな山「槍ヶ岳」登山で有ったことを知りました。嬉しくなりました。
印象に残った点が二つあります。
(1)上高地は神河内が正しき説
上高地ではなくカミウチ、漢字で書くなら神河内が正しいのです。
元々地元の人たちはカミウチ、もしくはカミグチと呼んでいたエリアです。
明治36年に雑誌に連載された小島烏水氏の紀行文ではカミウチに対して神河内なる文字をあてた最初のものだそうです。当時小島烏水氏は上高地なる文字を使用しなかったということです。
現在上高地と呼ばれるところは、穂高岳麓、梓川谿谷の一部を形造る谷盆地で、周囲の山々から、瞰下されるくぼ地だ、即ち上(かみ)といわんよりも下(しも)、高地といわんよりも低地である。初めて上高地へ遊んだ人たちの口から、往々上高地というから、高山の頂上のようなところで、遠望のきく高台かと思ったら、まるで反対で、山に取り囲まれたくぼ地であるのは意外だ、という感想を聞くことがある。(中略)単に地名から想像してかかれば、無理な錯覚でもないと思われる。
清水屋の主人らしい男の返事に「猟師はカミウチまではだれも行くが、岳へ登るのはたくさんはない」という言葉がある。(中略)槍へ登って帰る途中という人夫に遭遇し、槍ヶ岳の模様を聞くところで「梓川は源流を槍ヶ岳に発するが故に、梓川に沿うで、さかのぼれば至り得べし。その道は島々より発程するを最も可とす。島々より六里ばかり、カミウチ。」
小島烏水氏が何故上高地ではなく神河内の文字を使用したのかの説明もあります。
上と高地は同じ意味で二つ累ねただけで、この地を支配している水や河という意義はない。
穂高神社があるがその縁起は穂高見の命(みこと)が草創の土地で、命は水を治められた御方であるから今でも水の神として祀られている。(中略)自分は土地に伝わっている神話と地形から考えて「神河内」なる文字を用いる。
(※安曇野という地名も蒼膿(わだつみ)海神(わだつみ)から来ています。)
では何故上高地の文字が使われるようになってしまったのかというと、明治38年に、温泉宿が出来て、その名のりを、上高地温泉株式会社としたのが流布の原因のようだと小島氏は言っています。
−その頃温泉会社が、上高地の名を以て長野地方の新聞に広告し、注意をひいて、神河内即ち上高地なるかと疑わしめたのは、雑誌「山岳」の明治39年11月発行の日本アルプスの巻に河邨白水氏の「徳本峠の槍ガ岳」の文中に(上高地温泉)(楽に日の中に上高地へ行ける。)とあり、同志は、いわゆる上高地に赴かれてみると、林務所郵便局を右にして突きあたるとそこに新しい木に、上高地温泉株式会社と書いて、横の家には、上高地行荷物運搬所という札のかかっている家があると、しるされている。−
上高地という文字はある会社が勝手に付けた社名だったのです。
上高地は間違った当て字で神河内が正しかったのだということに合点がいきました。
確かに広河内岳や小河内岳、上河内岳など他の山で河内という漢字が沢山有りますが、高地が使われている山名はありません。
(2)Y校(横浜商業高校)の出身者
かつての高校野球の名門Y校ですが、小島烏水氏はY校の第四期生でした。
https://www.edu.city.yokohama.lg.jp/school/hs/y-shogyo/
横浜高校が私立、横浜商業高校が公立の高校です。
何故Y校などという英文字の学校になったのかの経緯も書かれていて興味深かったです。
ウィキペディアにも出身者の一人として小島烏水氏が掲載されていました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E6%B5%9C%E5%B8%82%E7%AB%8B%E6%A8%AA%E6%B5%9C%E5%95%86%E6%A5%AD%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1
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