そして東京郊外に住む私にとって親しみやすい奥多摩や奥秩父などが舞台です。
串田孫一さんの解説の中から・・・
「絵本のように」という名称で纏められた10篇の紀行文は、その当時としても特に珍しい山が紹介されている訳ではなく、私も既に登った山、いつでも行ける高原が殆どであった。
ところが読んでみると、同じ山麓、谷間や尾根の小径が、私たちの記憶に残されたものとはまるで異り、注意深く歩けば見えていたはずの山の姿の変化や自然が、この本の中では存分に味わわれ、それをまた何倍にもして文学的に詩的に表現されているのに驚嘆したものだった。
ヘルマン・ヘッセから贈られたという湖畔を描いた水彩画がカヴァーを飾っていて一層品位風格を感じさせる一冊になっている。
カヴァーの見返し部分にはこんなことが書かれている。
詩人尾崎喜八(1892-1974)が山野を歩く。
青空に屹立する岩峰とそこに吹く風を描く。
山村の佇まいとそこに暮す人々との交流を描く。
雑誌掲載中から山好きの若者達に圧倒的な人気で迎えられた本書は今もその瑞々しい輝きを失わない。(解説=串田孫一)
以下は私がメモった文中の表現や語彙である。
・夢のような前月一痕、ほのかに白く枯木の梢に懸っている。
・陰沈の気はあたりをこめて、頤を伝って流れる汗だけが、心臓の鼓動の音だけが、そして常に眼の前を行く友の足だけが、此処に一人の「我」という生物(いきもの)の在ることを思わせる。
・僅かの惰性でもこれを利用して登る事。
他念をまじえぬ事。
前途を考えず登頂とは無心の一歩一歩の総和だということを原理として固く把持する事。足の裏を地の傾斜に対して平らに踏みつけることは勿論、余り頭を下げず、視線は眼の高さよりもやや上方に注ぐ事。
仲間のある時はなるべく話をしない事。
喫煙は厳禁。
心臓の鼓動が烈しくなった時は、二、三分間静止し、その平調に復するを待って登り続ける事。ただし決して腰を下ろしたり、いわんやルックサックを外したりしないこと。等々
・蓁々と繁って(しんしんと)=草木が盛んにしげるさま。
・蓼科が朝暾(ちょとん)を浴びて立っている。 暾=あさひ
・簇出して(そうしゅつ) 簇がる(むらがる)
・岩尾根はひどく痩せて峙って(そばだって)=そびえる
・しばらくは吹き上げて来る谷風に涼を納れ(いれ)
・汗は淋漓(りんり)と頤(おとがい)を伝う
・颯々(さつさつ)と茅の中を駈け下る
・雲の下に丹沢は峙って見える
・清らかにも神さびた朝である。
・目睫の間だった 目睫(もくしょう)=きわめて近いところ
・豪宕(ごうとう)な海岸を洗って 宕=ほらあな、いわや
・東京は何という生活のどよもしを上げていることか! 響もし=音や声を響かせている
・野冊(やさつ)=野冊(やさつ)とは、植物学者たちが山野で標本採集した植物の容姿をそのままに、研究所まで運ぶための道具
・都人士(とじんし)=都会に住んでいる人。都会人。
・真紅の雁来紅(がんらいこう)=はげいとう
・鞣革(なめしがわ)
などなど昭和初期の文人の使う表現や語彙に目の回るような煌めきを感じた一冊でした。
尾崎喜八(おざき きはち 1892-1974)は自然と音楽を愛した詩人だ。大正から昭和の時代に、詩集『花咲ける孤獨(こどく)』、散文集『山の繪本(えほん)』、随筆集『音楽への愛と感謝』ほか多くの著作を残した。また「山の詩人」としても知られ、1958(昭和33)年に哲学者・串田孫一らと山の文芸誌「アルプ」を創刊した。
平明かつ選び抜かれた美しい口語体で自然、芸術、人への愛をつづった尾崎の作品は、声に出して読むとひときわ魅力が引き立つ。好んで朗読されたり、男声合唱曲の詞として歌われたりと、今なおファンが多い。2022(令和4)年9月には講談社より「創文社オンデマンド叢書(そうしょ)」として、『尾崎喜八詩文集』全10巻やヘルマン・ヘッセの翻訳書を含む尾崎の著書18冊が復刊。オンラインで代表的な書籍を注文できるようになった。
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