たしか島崎藤村は、生まれが木曽の山の中で、小説「破戒」のなかでは江戸時代を生きた父親は、ヒノキ山林が徳川の直轄地であっても、槇取りに入って、(伐採は禁)、風呂の焚き付けが得られたと、幕府は百姓の味方だったいう。ところが明治政府になると、それは西軍の暴力革命でもあり、徳川や大名の領地は、すべて天皇家の財産に入れ替えた。当時国有財産の感覚はなく、天皇家の皇室財産にすることが命題で、主権者である天皇が豊かになることが、国家使命だった。
従って山林も侵入禁止になり、ために森は荒廃し(槇取りのような清掃、間伐行為があった方が、森は活性化する)明治以降は百姓は寂れた。江戸の百姓は、明治のそれよりも豊かだったのかと、勘繰る。
しばらくして日露戦争の頃だと思うが、その一つ、南アルプスの赤石岳辺りの大井川流域の山林が、どこぞの不労所得したはずなのに、借金苦の落ちぶれ貴族が売りに出し、泣きついた相手が大倉喜八郎だった。彼は大倉財閥の創始者で、揃いも揃ってみんなが、1830年代生まれなのだが、西郷隆盛も、渋沢栄一も、坂本龍馬も彼も、今ではホテルオークラと、札幌の大倉山に名が残る。
ポケットマネーで買い取った地所は、東海パルプ(整理され社名は変わったが)の社有地として今も存在する。あの3000mの山が、ここだけが国有林でないことが、私は相当長い間不思議だったが、この話を最近知って納得した。私有地であるなら、戦後GHQも国家没収にはできなかったか。その後環境省の自然保存が始まると、私有地でもあっても、地主は勝手なことはできなくなった。
その大倉喜八郎の財閥とは、一時は岩崎弥太郎(三菱商事)をしのいだ。いや共に坂本龍馬の野心を実行したという意味では、司馬遼太郎の歴史観の中にいる。東京護国寺に二代目総理の山形有朋の墓の隣に、同規模で広い大倉家の墓があり、それは癒着政商で、満州、台湾であぶく銭稼いだ知能犯である証拠にも思う。幕末から維新の元勲は、みんなそんなものだ。
話はここからで、軍部の時代(1930年代)の大井川は、急流を利用して電源開発と森林伐採が、明治より加速されて、トロッコを敷くようになった。大井川である理由は、増水で氾濫がないほどにV字渓谷に閉じ込められた異様な河川で、だから稲作などは発展せず、それはアマゾンのように、河川の浸食より造山運動の隆起が勝るわけで、巨大水圧がどこよりも強力だった。
その支流の寸又峡温泉最寄の寸又川に電力会社がダムを建設するには、巨大千頭ダムが完成後、その上流へさらに40キロも、長大な軌道トロッコを延長せざるを得なかった。それは「帝室林野局」への水利権の補償行為だったというのだ。
皇室は奥で御用林を伐採させて、小遣い稼ぎして、それを太平洋の島田に搬送するには、川に丸太をぶん投げて、それに川狩り猟師が乗って、操るということをしていた。それがダムによって河川寸断されることの補償として、以降はトロッコ列車で運び出した。軍部の時代、いくら国土や国民を破壊しようとも、皇室財産への忖度だけはあったらしい。それを含めてこそ「軍部(国家)の愚か者」と今では罵ることができる。
そのトロッコだが、延々山奥に行くとは、川底の標高400m辺りから、標高で1000mも山を登ると1400m付近になる。超土木は、満州を攻めた関東軍と同じで、富国強兵の国家事業だった。そして柴沢まで40キロもの異常空間の軌道事業(ちょい前まで左岸林道といわれた)がすぐに完成して、30年間は働いたが、終了したのが戦後60年代、昭和43年だと温泉街に車両展示がある。
その頃すでに、困難を承知で建設した千頭ダム、下流の大間ダム、寸又川ダムは、築30年のこの時代に土砂で満砂になって、機能を逸した。千頭ダムでは今は貯水率は2%まで減少した。
当時から転んでもタダでは起きない戦後の高度成長に入っていた。不要になった軌道を剥がして、そこを林道としてトラックが通るようになった。本流の畑薙ダムやらも、どんどん建設された。ところがそのダム工事も伐採事業も、20年後の80年代にそれ以上規模拡大できなくなる。戸惑ったまま、放置されて今日まで40年に。
当然その間には、崖っぷちの林道は一雨降れば土砂崩れもあり、静岡とは台風の通り道で、寸断され崩壊しても補修できず、それは南アルプスを崩壊させてきた歴史と言い換えることができる。いずれ跡形もなく自然に戻っていくだろう。
私はその林道に、20年前に自転車で乗り入れて遊んだことがある。光岳の登山口柴沢まで往復したり、その途中に「お立ち台」という客も来ないふざけた観光名所があり、その辺りから逆河内への林道も分岐して、そこに「無想の吊り橋」も見に行った。ギネス級の猟師専用の、不動岳斜面に植林するための地上200mという人間業では通行できないようなものが、平然と掛けられていた。私は踏み出したものの、怖くてあっさり引き返し、渾身の力で再度往復したという経験がある。それにあの頃は黒法師周辺にはクルマが通行で来て、深南の2000峰とはいえ、林道にぶち抜かれた安っぽい山々の印象はぬぐえない。それを林道が崩壊した今さら秘境だと言い直されても、違和感はどうしようもない。
左岸林道も逆河内も、現地に到達できなくなった。当時そこに猟師の宿舎とか、重機、ワイヤーなどが残置されたままで、仕事の後は柿捨てとばかりに、ゴミも平気で山に残した日本人の悪い癖、どうせ水に流せではなくて、山に埋もれろ方式の、自然回帰に期待した。
南アの深南、大無間やら、池口、朝日などの登るにつけ、ここいらで、ちょい前の連中の悪さ、悪あがきが手に取るようで、大笑い。
登山者の私としては、徳川の時代から、南アルプスは多様に利用され、放置され、歴史の残骸のように思うが、その全部が山岳の歴史だろうとニヒルに笑いながら感慨に耽る。
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