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知床なんていうところは、遅れてきた自然破壊だと思っている。東京じゃ南アルプスの林道が最後の自然破壊で、以降はこういうバカげた物は作らないとなっていたのだが、知床の横断道路というのは、ほんの10年前に大反対したのに、強引に作った。北海道は90年頃のバブルに、スキー場作りでも山はかなりぶっ壊された。そのスキー場が今じゃ閉鎖に追い込まれる。銀行だって倒産した。
その後の起死回生に、知床は強引に世界遺産に名乗りを挙げて、一湖、二湖なんていう下らない湖に、あんなの富士五湖以下だし、日光の中禅寺湖以下である。そこに観光バスがドンドン乗り付けて、つまり過疎地は世界遺産というブランドをもらうことで、雑多な客をドンドン誘致して、小銭を稼ぐという、すべてのサイクルが物笑いの対象になってしまった。今どき夏の知床に行く奴の気がしれない。
しかし今年3月と4月の雪のあるときの知床に初めて行ったのだが、雪の季節のここは、まあ積雪期残雪期というのはどこでもそうだが、実に静かで誰もいないといえば、雪に覆われると、いきなり50年前と同じ風景になる。
知床とか北海道を知らない人は本当に何も知らないと思うのだが、斜里岳という百名山から知床岳という半島の先端の山までの山脈は、北アとか南アと同じくらいの規模だと言ったら、ウソだと思うか?距離にすれば同じくらいに知床だけでも、北海道とは大きいものだ。雪のあるときに行けば、なおその大きさに圧倒される。そして例えば3月の海別岳に登ると、左のオホーツク(斜里側)は流氷で真っ白な氷の残骸の海が広がって、右の羅臼側の内海は真っ青な普通の冷たい海。この落差は、見てしまった人はもう忘れられないし、知らない人にいくら言っても分かってもらえないことも知っている。オホーツクには流氷が来るのだ。発生地はバイカル湖である。
こんなところに森繁久弥は昭和34年に映画ロケで来て、2か月も滞在したのだろう。先の歌を昭和35年に作って、ミリオンセラーにしてしまったというのだ。昭和30年代の知床なんて、東京から何日掛ければ行けるんだ?行くだけで一週間か?ロシアのバイカル湖に今行くよりも遠かっただろうと思う。その映画の原作と言うのがあるらしいが、「オホーツク老人」という小説なのに、どうして斜里じゃなくて、羅臼なんだ?今でも理由が分からん。
知床半島は、羅臼の側になだらかで積雪が多く、雪は遅くまで残って、天気は悪い。斜里は半島も山も、険悪に絶壁になっている。季節風の西側斜面なのに、反対の羅臼よりも天気がいい。登るには圧倒的に羅臼有利で、草津白根か蔵王かというくらいに穏やかだ。だから海岸線の番屋も羅臼側にたくさんあって、しかしこの番屋はいまじゃ、足元の昆布の養殖だとか、内海の漁業だと思うのだが、この番屋から半島の向こうに回ってオホーツクまで船を出すのか疑問だが、オホーツクの漁といえば、斜里の方に水揚げが多い。町も斜里が大きく人口も倍もある。なのにどうして映画は羅臼だったのか?羅臼はオホーツクじゃないのに、オホーツクだと思っている人が圧倒的に多い。オホーツクは斜里だ。
森繁は50年も前の知床に行ったわけだ。日本の地の果て北極だっただろう。その50年後に、知床は観光地として低俗にはなったが、しかし海岸線からダケカンバが生えるし、標高500mで知床にはハイマツがある。それは北アの2000mに匹敵する高度で、残雪期のそういうことを知ってしまうと、やっぱり北海道の中でも知床とは、大雪とか夕張とか日高とかがいくら争っても、知床には勝てないというのが良く分かる。緯度が高いというだけで、雪が好きな人にとっては大きなメリットだということだ。
その知床に50年前に歌を作った森繁というおっさんは、三枚目のアングラ映画とか、屋根の上のオペラなんて馬鹿にして全く興味がないが、しかし、この歌だけは、天和・字一色のダブル役満みたいな歌で、今更ながらうなされる。50年前の知床で朝まで酒飲んで、白夜が明けたなんて、お洒落過ぎて羨ましい。海岸線からダケカンバなんて、日本じゃここだけである。
(写真は斜里岳〜斜里市街から 09・3)
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