その山は40年前から何も変わっていなかった。南ア大井川東俣林道。予約をすれば、山の所有者である東海フォレストのバスに乗って、気安く二軒小屋まで行けるそうだ。ただこの2年は、コロナのために運行禁止。その椹島で降りれば、そこが赤石岳東尾根の登り口になる。ここは別名大倉尾根という。大倉なにがしとは、いったい誰のことだろうか。
紅葉もシーズンのその日、午前中に家を出て、畑薙ダムの林道ゲートに夕刻着いて仮眠した。晩秋は朝六時にならないと夜明けは来ないが、待ちきれずに四時にスタートする。徒歩自転車は深夜でも通行できるが、真っ暗闇に入り込むのは勇気がいる。それに椹島までの四時間歩行は決して短くはない。
開き直ったような気持ちになった。どうもこの谷は数年前の集中豪雨で土砂崩れ崩壊したらしく、道路の再構築で重機が相当数路肩に置かれていた。脇をそおっと通り抜けるのは、夜間では気が引ける。ずーっと過去にこの道をマイカー走行したことがあるが、途中の赤石ダムはその頃なかった。今はその周辺だけは舗装整備され、道は大きく迂回していた。大井川は明治の時代からダム水源であり、森林の伐採、数知れずの堰堤建設や治山事業、そしてついに二〇二七年に開通予定の東京〜名古屋リニアのトンネル工事建設現場になっていた。公共事業にとっては、果てしない打ち出の小槌。南アはマジに国立公園なのかといつも疑う。
夜明けを迎えて、ようやく晴天の朝になった。圧倒されるほどの紅葉景色が現れたが、私一人だけトボトボ、クマの出没看板にビクビクしながら歩く。ようやく椹島に着く頃に、その未舗装の危なっかしい道路にグワ〜ッという轟音と共に、重機を積んだ巨大ダンプが行列で上ってきた。昼間は工事中だろうとは思ったが、明るくなるとゲートが開放される前から、さっそく始まるようだった。ダンプはリニア工事の地上現場、二軒小屋までの崩壊した道の補修や、椹島の数百人に及ぶ従業員キャンプの物資補給もする。様相は戦場といったら言い過ぎか。一体どういう登山になることやら……。
大倉尾根を登っていく。取り付きはのり面階段からヒノキ植林の急登だったが、尾根に出れば穏やかな広葉原生林が色づいて広がっていた。地面には白い岩のゴツゴツが続く。登山道は少し先で廃道林道を横切った。いつの時代か、林道を上の方まで延ばしたが、不要になると放置したらしい。延々と樹林帯が続いて、赤石小屋に着いたのは午後三時になっていた。正式名称で、特種東海フォレストという企業経営のリニューアルされた小屋。疲れ果ててこの先を登る気力が失せた。周辺にテントでも張ろうと思ったが、冬季小屋が解放されていて、梯子から屋根裏に上がれた。オシャレにも羽目板の裏からオレンジLEDの間接照明が明るい(夜間に自動消灯)。使わせてもらうことにした。
樹林の合間から登るべき本峰が見える。数日前の降雪で一部冠雪している。明日はアイゼンが必要かどうか。それよりも今日ここに宿泊すると、明日は四時間登って頂上へ、そして下降、さらにゲートまで林道歩行。計画は可能だろうか。夜間に満月が輝いて自分の影が地面に映る、久しぶりの経験だ。ここを一泊だけのキャンプとした。
翌朝は暗いうちに軽装で小屋を出た。穏やかな移動高の星空の中、西に傾いた月を目指して登っていく。頭上に頂上(避難)小屋からからの下山者らしき、ライトがチラチラと揺れていた。道は尾根から左に外れて、どうやら赤石沢北沢の源頭カール地形の中に入っていく。
この谷を四〇年前に登ったことがあるのだ。赤石沢本流(南沢)は沢登りマニアには有名で、水量の多い豪快な谷だった、懐かしい。その支流が登山道にもなっている北沢だった。赤石岳のカールは、標高二七〇〇メートルまで登っても、水が流れて潤いがある。固い岩肌の草付き帯は、盛夏ならばお花畑のはずだが、今はただのハイマツ斜面。そこに数日前の積雪が不安定に被る。すれ違った下山者は、
「聖岳からぐるっと回ってきて、今日下山します。林道は長いですけど、しょうがない」
と達観したようす。
明るくなって、本峰がいよいよ目の前に迫ってきた。重量感のある赤石岳のその山容。慎重にアイゼンを付けたり外したりする。小赤石との中間尾根に乗り上げて、そこから緩傾斜をゆっくり頂上目指す。背景の荒川岳はもちろん、その奥に塩見岳、北岳、仙丈岳まで見渡せた。遠い過去にはここを縦走したことが三度もあるが、記憶はおぼろげだ。若い頃は飛んで走った。それを今日はこの一峰だけを目的に、ようやく到着する。
ついに冠雪した赤石岳の頂上に登り着いた。山頂直下にリニューアルされた避難小屋。前に苦労して登った笊ヶ岳も向こうの尾根に見えるが、三一〇〇メートルからでは、すべての山が低く見える。小屋にいたもう一人の宿泊者が動いていたが他に誰もいない。白日夢のような、少し寒く穏やかで停止した時間。ああ〜、ほんの数分滞在するだけが、登山者の至福の時。
さっさと下山しなければならない。今度は明るい道を楽しみながら戻ろう。一旦登った道は下りやすい。北沢の花崗岩の水場で少し休んだら、携帯電波が入った。宿泊した小屋に戻って、デポ荷物を背負い直した。その下で、頂上で見かけた登山者に抜かれたが「クマがいたから声出して下っているんです」と、彼は昨日私より早い時間にここを登ったようだった。
思ったよりも早く午後四時前に椹島にたどり着いた。さらに四時間を覚悟して、林道をゆっくり歩きだす。日暮れ直前に目の前を走り去った大型の野生は、リズミカルな動きだったからカモシカだろう。その後真っ暗闇のなかゲートに戻った。今日は一七時間歩いた。
自宅に戻ってからメールでやり取りしたが、二日前にここを下山した外人さんは、頂上から二時間半で椹島に下り、さらに二時間でゲートまで戻り、さらに走って白樺荘から一四時の町営バスで静岡に戻ったという怪物ランナーだった。そんな人が数人だけ、南アを彷徨している。
登った「大倉尾根」とは、鉄砲商の丁稚から出世した明治の財閥大倉喜八郎が、大正一五年夏、道楽の極みとして九〇歳直前に、二〇〇人もの大名行列に担がれて、東京から往復二週間、登山道を切り開いての登頂から命名されていた。今となっては大倉の名は「ホテルオークラ」と、銀座の二棟のオークラハウスに残るほどだが、日清戦争(一八九三年)後に満州で発電製鉄鉱山鉄道など国家事業を行った。どうやらこの南アは、その頃の没落貴族から、山林すべてを五万円(今の二〇億円ほど)で購入したと資料に残る。源流の間ノ岳までの広大な地所だ。大倉は他にも鹿鳴館を建造し、東京・中部電力の創業にも関わり、特種東海製紙も彼の会社である。つまり赤石岳は今でも彼の地所(社有地)。その大正時代に、昭和天皇の弟(秩父宮)の国内海外登山に賛同し、
「そういえば、私の地所にも日本一の山があったなあ」
と赤石岳登頂を思いついたらしい。過去に登山歴はない。しかも遺言として、その頂上での風葬を指示したというのだから、財産も道楽も、愛称どおりの「底なし瓶」だった。坂本龍馬や岩崎弥太郎の同世代であり、伊藤博文や渋沢栄一の親しい兄貴分。一八三七年生まれ、九一歳まで長生きした。遺言通りに、
「没した昭和三年の夏に、息子喜七郎さんが赤石岳に登山して、位牌と遺髪を焼香したと言われています」(関係者)
と今でも創業の偉大さが言い伝えられている。
残念なのは、大倉をすればここはスイスアルプスをしのぐ、雲上の楽園にでも展開できただろうに、四代目になっている今は、治山とリニアの末に、破壊の生贄に晒されている。東京護国寺の最奥の重厚な墓を訪ねると、明治の宰相・山形有朋の隣なのに自由に参拝できる。デザイナーズ墓石脇には、赤石岳の名産赤色チャートが植木を囲む庭石として、小雨に濡れて赤褐色に輝いていた。(二〇二〇年十一月の記録)
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