かつて高校山岳部の夏合宿とは、南北アルプスや飯豊朝日連山に一週間滞在して、山の魅力を体験した云々。私の母校(埼玉県立川越高校)の部活もそうだった。ところが昨年の夏明け、後輩の山行記録を見る機会があったが、夏合宿がなんと日帰り大菩薩山行(2021夏合宿)になっていた。高校部活がコロナ禍含め諸般の事情でかなり縮小されたのは知っていたが、ついにここまでの安易な、世も末、指導教師は何を考えているかと、怒りたくもなった。学校に集合してバスで上日川峠へ、一時間歩いて米炊いてカレーの昼食。頂上往復して下山である。小学生の遠足にしても物足りない。そうなのだ、時代は明らかにおかしな方向に舵を切り出してしまった。
母校は旧制中学で大正デモクラシーの頃に山岳部が立ち上がり、いま百周年に差し掛かったところだ。とある理由で、私は九〇周年の時に記念誌編集に関係して、通年の記録を収拾再録した。その時にも感じたが、一九七五年生まれ(団塊ジュニア=一九九〇年頃在学)以降、明らかに部活山行がひ弱になってきた感がある。九〇年バブルが弾けると同時に、以降は生徒数も減少傾向だから厳しい登山はご法度。ゆとり教育(九四年から)も始まり、それは未だに継続されたまま。本校に限らず、県の高体連の指導教師不足から、登山が安易に、それは劣化したと同義語になる。クライミングジムも盛んになり、本物アウトドアが減った。生徒たちはそれで満足しているのだろか。
私は還暦を過ぎたが、在学当時の合宿とは、夏に一週間、冬(年末)と春(三月)に三泊ほどの山行が組まれて、日帰りに比べて格段に遠く高い山に登り、それこそが山岳部らしく、人生を魅了するほどの体験をした。それがいつから壊れてしまったか。周年誌を再度読み返して少し拾い出してみた。
今から二〇年ちょい前、この頃からすべてが怪しいのだ。一九九七年の夏合宿は愚かしいことになった。計画は北アの高瀬ダム〜湯俣〜真砂岳〜槍ヶ岳方面で、例年通りの一週間計画で生徒顧問三〇人を超える大人数で入山した。二日目、湯俣から八時間登って真砂岳直下。登山道が一部崩壊していた。空身で登り返した教師によれば、重い荷物の下級生には登れないだろうと判断。ヒステリックにも引き返すことにしたという。一般道である。空身で登って、荷物は教師か上級生が往復担ぐとか、どうにかならなかったか。登れれば野口五郎岳テント場はすぐだ。それを合計一五時間行動で前日同様湯俣に下降し、翌日ダムサイトに戻って各自荷物点検をした。するとビーチパラソルやら、スイカ、パイナップル、缶詰など、登山に関係ない駄物ばかりで、ザックが三〇キロにも膨れ上がっていたことを、教師たちも知ることになる。
山岳部では慣例として、前年の卒業生が見送りに来て、冗談半分に妙なものを差し入れする悪習慣があった。それがマックスに達した時期のようだ。これで合宿前半は壊滅してしまった(後半はブナ立て尾根から野口五郎岳を往復した)。
いけないのはその翌九八年も。登山にも高校総体があるのだが、それへの参加が強制的になったようで、ために夏合宿が短縮されて、二泊三日の南ア白根三山になった。その総体とは徳島の三嶺連山で開催され、生徒数人は空路入山。競技としての採点登山であり、隊列の様子やテント生活がチェックされ順位が付けられる。私の時代でも生徒に失笑される大会で出場などしなかったが、未だにそれが生きているとは。
さらに翌年(九九年)は、中央線の夜行列車廃止などで登山形態も変わった。夏合宿は上高地から槍ヶ岳の往復山行だけ。その翌年は八ヶ岳三日間、さらには劔岳三日間(上越新幹線利用)とスマートになっていく。もう一週間もの合宿は過去の遺物になった。
つまり高校行事などは、毎年慣例化され継続するからこそ、学校の伝統になってきた経緯がある。それは創部から七〇年間、一九八〇年代まで「夏合宿は一週間の幕営山行」を恒例にしてきた。大正時代の富士登山は、大月で桂川(駒橋)発電所(首都圏初の発電所)を見学してから、徒歩で富士吉田に移動し登り始めている。あるいは戸隠神社から白馬岳へ。喜作新道が開通すれば、表銀座から槍〜上高地〜徳本峠〜島々。昭和一桁時代には、強力を雇って、常願寺川の河原から立山を登行した。まさに槙有恒と同じだった。その後南アがブームになれば、三伏峠で南北を分けて、それぞれ一週間で縦走した。その歴史をこの数年であっさりと覆す。明らかに高体連という上の組織(文科省)から、現場の教師に縮小指導を徹底させたのだろうことは、容易に想像がつく。いや夏合宿など辞めて、総体への参加だけでいい。
冬と春の合宿も見てみよう。高校生の積雪登山は、ツボ足もしくはワカンで登行する程度で、アイゼン使用は原則禁止だから、八ヶ岳、蓼科、尾瀬、安達太良、那須、巻機山などで行ってきたが、引率顧問の不在が続く。先の九八年には、春合宿として予定していた安達太良山の鉄山付近で、有毒ガスによる死亡事故が発生し、合宿は前日に中止される(代替えがない)。さらにその翌年からは、顧問不在で三年間中止になった。
また年末の冬山合宿は、夏に失敗した九七年に四阿山に行ったようだが、翌年からは高体連主催の冬期講習会が、合宿の代わりとなった。これは九一年に始まっていたが、高体連が数校まとめてバスで巻機山の清水集落(第一回目)へ生徒を運び、このエリアでラッセル訓練や雪洞泊。翌日は下山して温泉泊という催しものだ。会場は後に箕輪スキー場へ、さらに黒姫山へ変更になった。どうにもゲレンデスキーの余興のようなイベント。ああこの遊び半分の姿勢が、数年前の那須で高校生八人死亡の雪崩事故(栃木県主催)につながる。
講習会は一五年ほど続いたようだが、後に積雪引率も難しくなった。〇七年頃からは、二月の山行も丹沢山になり、棒ノ折山になった。積雪登山は事実上やらないのだ。
私の数年先輩などは、冬に生徒同士で黒戸尾根から甲斐駒岳に行ったり、八ヶ岳を縦走したり、もちろん金峰山や国師ヶ岳とか。俗に若者の結婚出産も、当時より一〇年遅いとも言われるが、果たして登山も同じことか。生涯がまともな登山を知らないままなら、ちょっと残念だ。
例え話だが、我が家の次男坊は八七年生まれ(三四歳)だが、彼こそが小学一年からの「ゆとり元年」世代だった。最初は土曜日が月イチで休みになり、そのうちに隔週から毎週。家族で旅行に出かければ「どうぞ、どうぞ。ご家族での経験はいい思い出になりますよ」と教師は欠席を歓迎する。彼は中学からスキー部(歩くスキー)だったが、試合を兼ねて都内私学教師に引率されて、奥日光に出かけたときは、練習時間が降雪中だった。私は帯同して、それでも少し調整するのかと思ったが、中高の幹事教師は「いいよ、こういう日もあるよ。今日は先生と一緒に大貧民(トランプ遊び)をやろう」と、生徒は大いに盛り上がって、旅館に戻ってしまった。
あの時代から教師がこうなのだ。中には自主練習するという気の利いた生徒がいても「みんなと行動は共にしようよ。別行動はよくないなあ」。悪貨は良貨を駆逐していく。原因はこれだ、やる気を潰す。私は呆れた。しかし文科省の指導がそうである。
今年の行動は、コロナ禍で一学期は省略して、先の大菩薩が年度の初山行だったらしい。この二年間、泊りの山行はやっていないとも。ゆとり教育の最中、九九年に在学し、大学卒業後に部報に投稿した生徒によれば、
「私の在学中は、冬と春の合宿は一度も行われなく、雪山の存在はとても遠いものだった。しかも夏山合宿でも、私の前年は一週間も行っている。私のときは三泊四日だった。私はもっともヌルい時代にいたのかもしれない」
と報告。今はさらに加速した。それでも彼は大学(信州大学)ではワンゲルに入った。常念岳を見ながらキャンパスに通い、夏には二週間で太平洋まで抜けたり、冬はワカンラッセルの三年間を過ごした。その理由とは、
「もし高校時代に駅や雪洞で寝た(講習会)経験がなかったとしたら、山に対する思いは全く違っていただろう」
と記す。やはり部活の体験が山への共感にはなっている。だからこそ年配者とすれば、もう少し豊かな登山くらいはさせたいとも思う。
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