「重いキスリングをひょいと頭の上まで担ぎ上げてから背負うような、馬力あるいい男でした。実家が銭湯で上に姉たちがいたから、山登り三昧だったと思います」
そう語るのは旧友の長島さん(七九)。
亡くなった友人は大石さんで、大学一年のワンゲル部員だった。享年一八歳。もう半世紀以上も遠い過去の話になる。前回は、今の情けない若者たちの登山世相を書いたが、六〇年前のそれは真逆で、軍国主義も色濃いシゴキ体罰の傍若無人の時代だった。高校時代(私の母校でもある)から張り切って山登りをして、進学した名門大学でワンゲル部に入部し、元気に夏合宿に参加したはずだった。そこで先輩たちからのシゴキ事件の被害者にされた。
長嶋さんは、故大石さんのことを思いだす。高校時代の同級は、大学も一緒だった。入学して間もなく、偶然にもキャンパスで見かけて話しかけられた。一九六一年(昭和三六年)四月のことだ。
「もう、どこか入ったのか」
と大石さんが聞いてきた。
「いや、まだだ。親が(登山に)うるさくてなあ」
「俺は、ワンゲルに入部したよ。長島は、山岳部に入るといっていたな」
「入部の紙はもらったが、まだ出してない。大石はワンゲルか、いいなあ。俺はどうするか。おふくろとも相談しないと」
「ここの山岳部は怖いぞ。大学で初のヒマラヤ遠征した、聞いているか」
「ああ、知ってる。名門だからな」
戦後のレジャーブームというのは、この時代からのことらしい。前回の東京五輪の頃で、山岳映画も、ドメゾンの「アルピニスト岩壁に登る」(五九年フランス映画)、京大隊の遠征記録「花嫁の座・チョゴリザ」(五九年)など封切られ、彼ら高校生山岳部員も憧れていたものだ。
当時は一般紙も、海外初登頂の栄光を報じたが、山の事故はさらに大きく報じられた。十一月の富士山で、十五人が死亡(一九五四年)の雪崩事故があった。初冬の富士で恒例の雪山訓練。その幕営が、今では考えられないが吉田大沢の七合目、二六〇〇メートル付近というわけだ。「雪崩が怖くて、冬山に登れるか」という気の狂ったような号令で、日大も、東大も、慶大も、総勢四〇人以上で入山、半数近くが埋められて命を落とした。
谷川岳でも衝立岩の初登(五九年)があったが、その翌年には同じ岩壁で、宙づり事故があり自衛隊の特殊部隊が出動するまでになった。いずれも暗い影と大きな関心を呼んだ。
極めつけが今でも実名で回顧報道される、東京農大ワンゲルの「死のシゴキ事件」(六五年)。大部隊で奥秩父に入山した一行は、一人が死亡し、二人が重体になった刑事事件。OB上級生ら七人が有罪になり、退学し、無期停学になった。その山行中では、疲れて歩けなくなった部員に対して、蹴る、殴るなどの暴力ほか、集団リンチ。中では「精神棒で腹をえぐる」という悲惨な行為もあったという。いや実は他の大学でも似たような例があった。これがその一つの証左でもある。
私は一〇年前に母校の周年誌作成の折に、その大学に連絡を取った。私たちのOBがそちらのクラブで死亡した、その過去の記録はあるのかと問い合わせると「あります」といい、入手することができた。それを参考にしてみよう。
該当するワンゲルでは、群馬水上の上ノ原高原(宝台樹スキー場周辺)に集結する総勢八四人、八パーティで夏合宿が行われた。中でも大石さんが参加したA隊の行程が最も長く、メンバー八人は、志賀高原の発哺温泉から、岩菅山〜烏帽子岳から秋山郷に入り、苗場山から元橋、さらに平標山〜上越国境〜朝日岳〜宝川温泉〜上ノ原へ歩き通す八日間の計画だった。新人の大石さんは意欲的に参加したはずだったが、入山二日目から体調異変に陥る。
「大石君は切明までは元気に下山したが、その後幕営地の二〇分ほどのところで、足が痛み疲労の色も濃いので、荷を降ろして歩くが、どうも足がしっかりせず、空身にして和山温泉に着く」(当時の部報から)
ところが翌日も、苗場山までの行動予定だったが、
「大石君は遅れ出した。昨日と同じ空身にして歩く。ために予定変更で、苗場山一時間手前の水場で幕営する。先に登って幕営食事を用意したが、大石君は部員の肩を借りて到着。吐き気があった。彼を越後湯沢から下山させることにした」
と続く。実際に赤湯方面から下山できたのはその二日後。
「分岐まではよかったが、下りに入るとぐっとペースが落ちてきた。下山できるか心配だったが、抜かれたパーティと担架を作り林道へ出た。そこからトラックで温泉旅館へ夕方七時。医師の診断では〈単なる疲労です、回復するでしょう〉と。大石宅へ電報を打った」
実家に戻った後の診断では「重症無筋力症」というもので、一週間ほどで回復する見込みだったという。取材当時は、実姉が健在だった。
「ほとんど昏睡状態のまま、体を支えられて下山してきたようです。川越に戻る車内でも、通路に倒れ込んだまま。自宅に戻っても食事を摂れないし、どうにかジュースを飲んでも、すぐに吐き出してしまう。そのまま入院して、日大病院では当時の人工呼吸器「鉄の肺」という装置で再生を図ろうとしましたが、その直前帰宅して二日目ですが、亡くなりました」
と説明した。そして姉が訴えたのは、
「あの農大の事件と同じなんです。登れないから下山したいと申し入れても、許されなかった。ワンゲル部も辞めたいと言ったが、辞めさせてくれなかった。体が弱っているのに、歩け、登れとしごかれた結果が、これでしたから」
高校時代は夏合宿で槍穂高へ。積雪の三月には、七日間で金峰山から雲取山の合宿へ。さらに正月には、黒戸尾根から甲斐駒岳へと、すべての山行に参加していた。
「彼も私も、高三の一年間は登山もやらずに受験勉強だけで過ごしました。それを大学一年の夏に、いきなり大荷物の長期合宿では、体調異変を起こすことがあったのかも知れません。そうでも思わないと私自身の登山ができなかった」と、もう一人同期の斎藤さんは悔しがる。
彼も、同じように大学で登山仲間を探していた。
「あの頃は冬の剣岳などを華々しく登っていた山岳部は眩しかったですよ。ただ監督の新聞記者で日山協の山崎安治さんは、『入部希望者が多すぎて困るんですよ。だから土合から一ノ倉まで五〇キロの石ころを背負わせて、耐えられた者だけ入部させますね』なんていう談話を出していて、入ったら殺されると思いました」
こうした土壌の上に、仲間同士のシゴキがあったのか。「山岳部の合宿は、傍で見ていても目を覆いたくなるときがある」と、当時を知る登山者はいう。シゴキの裏側にあるのは、訓練と称するイジメか。山に登るということは、どこか堅気の生活を捨てると思われた。元総理の橋本龍太郎も同じ世代だが、彼も麻布高校時代は山岳部に在籍して、進学した慶応大学では剣道を始めるようになった。「(登山は)母親に泣いて止められました。貴方に死なれたら私は生きていけない」。有名な話だ。
当時の新聞資料では、戦争が始まった一九四一年に政府は「産めよ増やせよ」の多産政策を奨励した。その翌年に生まれたのが大石さんの年代(一九四二年生)である。親は国家の奨励に従って子を産み、子は教育の中で体罰に耐えた。「先輩がタバコをくわえたら、それに火をつけるのが後輩の役目」とされ、そうした上下関係が誉められた。
今から振り返れば、当時はネズミ一匹も出入りさせない強固な登山組織だった。それがバブル崩壊の今では、前回見たような日帰り大菩薩に登るだけという、漂流する幽霊船のような軟弱な組織。前者も後者も行き着く果てに成功はないだろうと思えてくる。当時上ノ原高原には、大石さんの慰霊碑が建立されたようだが、今では造成の陰に埋もれてしまったようだ。
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