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当時の装備や食料は今ほど精練されていません。ガソリン式コンロのホエーブス、テントは某山道具店オリジナル(何とアルミポールまでついて、当時の値段で2000円!)のツエルト似た二人用テント、なぜかシュラフはまだ一般的でなかった羽毛の夏用(これも山道具店のオリジナル。オリジナルは輸入物よりずっと安かった!)。食料は、ジャガイモ・ニンジン・タマネギ・お米などをそのまま袋に入れて持って行きました。なぜか非常食+朝食用としてアルファ米もたくさん持参してました。
また当時ちょっと写真にも凝っており、モノクロ写真を自分で印画紙に焼いたりしていたので、マミヤ645カメラ(ヤマケイに広告が載っていた、フィルムがブローニュ版の大きめのカメラ)も装備に入りました。これらをやはり某山道具店オリジナルの特大ザックに詰め込むと、重量は35kgにもなりました。今ではとても担げない重さですが、当時はそれまでにもこの程度の荷物は担いでいたので、あまり気には留めず、夜行列車で富山に向かいました。
さてアルペンルート経由で立山室堂に着くと、人人人!
観光客で大変混雑しており、単独で大きな荷物を担いで来ている自分はなんだか落ち着けません。早く静かに登りたい一心で、当初雄山からスタートする予定を浄土山経由に変更しました。ところがずっしりと肩にくる荷物の重さと夜行列車での睡眠不足もあってか、中々足が進みません。ザラ峠を着くころにはかなり消耗し、バテバテ・ヘロヘロになってこの日の幕営地である五色ヶ原テント場に到着してしまいました。
ここで計画の練り直しです。こんな調子では、この後とのコースを歩き通すなんてのはとても見通せません。特に明日は薬師峠までの長丁場なので、なんとか荷物の軽量化を図る必要性がありそうです。とは言っても、処分できそうなのは食料だけです。とりあえずジャガイモetcの必要量を当初の半分に見積もりなおして、かなりの部分をそこで処分しました。アルファ米がたくさんあったので、米も処分しました。これで数kgは軽くなったはずです。万が一途中で何かあって食料が不足しても、双六岳以降はいくらでもエスケープルートがあるので、まあ大丈夫でしょう。
五色ヶ原テント場は、高原状でお花畑がたくさんあり、水も豊富で、後立山連連峰の眺めが良い素晴らしい場所です。北アルプスのテント場としては、一番好きな所です。翌日はまだ暗いうちから出発し、これまた途中で素晴らしい夜明けの景色を眺めることが出来ました。昨年、同じコースを歩きましたが、五色ヶ原のテント場の美しさ、夜明けの素晴らしさは、変わっていませんでした。
この後の記憶はほとんどありません。翌日は薬師岳を越えて薬師峠へ、さらにその翌日は黒部五郎岳から三俣蓮華のテント場まで縦走しましたが。。。ただ、黒部五郎岳のカールの美しさだけは強く印象に残っています。ここには大岩があちこちにあり、雪田から流れ出る水も豊富で、1日ここでのんびり岩登りをして過ごしたいなぁ・・・と思ったことを覚えています。
さて4日目はこのコースのハイライト、三俣蓮華から槍ヶ岳です。初日に立山から遠くに見えた槍ヶ岳は、日に日に大きく見えてきて、三俣蓮華岳からだとかなり近くに見えます。北鎌尾根も含めて、とてもいい景色で「絵」になる風景です。しかし疲れも溜まってくるころで、西鎌尾根の登りはかなりつらくなってきます。
槍の肩まできたら一安心。この時は予定の時刻より早く着いたので、幕営は槍の肩ではなくもう少し先に進めることにしました。とりあえず槍頂上に向かいます。しかし。。。多くの人が行列をなして、中々進めません。山頂へのルートにはクサリやハシゴが整備されていますが、当時岩登りもこなしていた自分にとっては、クサリなんていうものはまったく不要で、登山コース以外の岩場も普通に登れるルートとして見えてきます。そこで、人の行列から離れて、横の岩場をするすると登っていきました。
「お、猿がいるぞ!」
他の登山者が声をあげます。確かにまるで猿のように岩を登って、さっさと頂上についてしまいました。後から思えば、登山ルートじゃないところを登るのは、落石等の危険があってタブーです。若気の至りだったということで、これを読んでる人は、まねをしないでくださいね。
さて、槍ヶ岳の頂上を踏んで、その後は中岳のテント場を目指しました。(当時は中岳にもキャンプ指定地があったんです。)この頃になるとガスが出てきて、あたりは真っ白になりました。ちょうど雪田を横切っているときにガスが濃くなり、ホワイトアウトとなりました。自分の前後・左右はおろか上下も白一色で、まるで中に浮かんでいるような感覚です。平衡感覚もおかしくなり、少しでも踏み出すと奈落の底に落ちてしまいそうで、恐怖心で一歩も歩けなくなってしまいました。そのまま立ち止まって、時間にして数分間。。。この時ほど心細く感じたことはありませんでした。ガスが晴れてみると、なんてことはない普通の雪田で、数十mも行けば道に出ることができました。こんなにもガスの有無で違うのかと、認識を新たにした経験でした。
結局、到着した中岳のテント場でこの日に幕営したのは自分一人。とても静かな夜でした。
翌日はいよいよ大キレットを越えて穂高に入る日です。しかし朝から天候が悪く雨が降っています。(この縦走で初めての雨)それほど激しくは降っていなかったので、とりあえず行ってみようという気持ちで出発しました。大キレットのぬれた岩場はかなり危険度が増していたはずですが、まったく覚えていません。危険はあまり感じなかったのかもしれません。北穂高岳山頂に着くころには、雨がかなり激しくなってきたので、奥穂高に向かう予定を変更してそのまま涸沢まで一旦下りる事にしました。
この時の自分の気持ちは今でもよく覚えています。
「立山からここ(穂高)まで来たんだから、自分なりに良くやったと思う。もう十分じゃないか?」
「明日も雨が降ったら、このまま上高地に下山しよう。。。」
「もう疲れた。。。明日は雨が降ってくれ〜!」
夕方になって、雨は小降りになりましたが、まだ穂高山頂方面はどんよりと雲に覆われていました。。。
翌朝です。
心の奥底の期待は見事に裏切られ、快晴です。こうなると上高地に下りるという理由付けが出来なくなりました。仕方なく(?)、涸沢から奥穂高目指してザイテングラードを登り返します。途中で日が昇ってくるのが見えましたが、とても美しい夜明けで、あのまま下りなくて良かったとつくづく感じました。
奥穂高岳から西穂高岳の間は北アルプス随一の難所であることは良く知られています。短い距離の割りにコースタイムは6時間と長めになっています。しかし、ここもほとんど記憶にありません。岩登りが好きな自分にとっては、どうって事無かったのかもしれません。唯一ヒヤッとした箇所は、ジャンダルムを巻き込むトラバース箇所でした。西穂高までコースタイムの半分の3時間で行けました。
西穂高のテント場でいよいよ最終日の夜を迎えました。明日は下山するだけですが、上高地に下りるか新穂高に下りるか迷いました。このときどういう理由でか、この時は新穂高側を選びました。(おそらく高校生だった自分は、少しでも交通費が安いほうを選んだんだと思います)最後にちょっとした罠が待ち構えているとは知らずに。。。
現在は新穂高から西穂高に登る人はほとんど皆ロープウェイを使いますが、それは新穂高からの登山道が廃道になっているからです。(ロープウェイのために使う人がいなくなって廃道になったともいえますが。。。)当時はまだ廃道ではなかったのですが、地図上では点々の道で表示されていました。
ロープウェイの駅に向かう道の途中の分岐から、新穂高への下山道に入ります。そのまま下りていくと段々とブッシュが出てきて、道は不明瞭になってきました。そして、ついに完全に道を見失ってしまいました。気がつけば小さな沢の流れに沿って下りています。この時に履いていた登山靴は、ノルディカのモデル・コンタミヌという今の靴から比べるととても重い皮製登山靴ですが、中まで水が入ってグチョグチョで、さらに重くなってしまいました。幸い滝とかには遭遇せず、無事に林道に出て新穂高に下山することが出来ましたが、この最後の下山が一番苦労したところかも知れません。
記憶をたぐりながら書いてみると、やはり苦労した記憶が良い思い出として残っていることが多いようです。。。
写真1枚目は、五色が原からの美しい夜明け。
2枚目は、三俣蓮華から見る槍ヶ岳。今も昔も変わらない、すばらしい景色です。
3枚目は、雨のため下りた涸沢のテント場にて。
おはようございます。
Cross-hillさんも情熱家だったのですね〜。
こちらもつい熱・中して読んでしまいました(*_*;
dejavu さん、ありがとうございます
あのころは、かなり山に入れこんでましたからねぇ。。。
それにしても、朝お早いですね!
ふふふ・・西穂高一般道
昨年上がってたいへんでした
ただ、標識などは充実して上がれる雰囲気でしたね
西穂高山荘で「廃道ですから使わないで」といわれましたが・
ロープウェイが停止したときのエスケープだと思ってました。
昔々のお話・・生き生きとして共感を覚えます
でわでわ
uedayasuji さん、こんにちは。
昨年のレコは以前に読ませていただきました
ロープウェイが出来たときから、そうなる運命になったとも思えますが、歩いて登る人のための選択支も残して欲しいものです。
でわでわ
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